ルイジアナ州セントタマニー郡
郡のルイジアナ州内の位置
州のアメリカ合衆国内の位置
設立1810年
郡名の由来インディアンの酋長タマネンド
郡庁所在地コビントン
セントタマニー郡(英: St. Tammany Parish)は、アメリカ合衆国ルイジアナ州の東部に位置する郡である。人口は26万4570人(2020年)[2]。郡庁所在地はコビントンであり[3]、同郡で人口最大の町はスライデルである。
セントタマニー郡はニューオーリンズ・メテリー・ケナー都市圏に属している。
セントタマニー郡はポンチャートレイン湖の北にあるので、ニューオーリンズ都市圏の中では「北岸」と呼ばれている。都市圏の中では最も裕福な郡であり、公立学校の仕組みがあり、政治的には保守的と見られている。
2007年に出版された『ムーン・ハンドブックス・ニューオーリンズ:ケイジャンの国と川の道路など』では、ニューオーリンズ市の近くに住みたいが、市内には住みたくない人々が、セントタマニー郡の人口を増やしている可能性があると言っている[4]。 1699年、フランス人探検家ピエール・ル・モワン・ディーバービルが現在のセントタマニー郡となった地域を始めて訪れたヨーロッパ人となった。ディーバービルはその日誌に「私が居る場所はこれまで見た中でも美しい所であり、草の無い良い土地である。湖の北には松の木に硬木が混じった森林である。土壌は砂が多く、バッファローやシカの群れが見られる」と記した。 この地域には昔、多くのインディアン部族が住んでおり、例えばコラピサ族、バイユーゴーラ族、チカソー族、ビロクシ族、チョクトー族、ペンサコーラ族などだった。ただし、フレデリック・S・エリスはその著作『セントタマニー郡:ロートル・コテ・デュ・ラク』で、地域でも著名なチョクトー族は、ヨーロッパ人が入り始めた後でこの地域に入ってきたと主張している。 フランスがニューオーリンズの町を設立し発展させた後で、フランス人がこの地域に入り始めた。主要な産業は森林から作られるピッチ、タール、テレビン油および天然樹脂の製造だった。 フレンチ・インディアン戦争でフランスが敗れた後、セントタマニー郡を初めフロリダ郡部の地域はイギリス領西フロリダの一部になった。イギリスがアメリカ独立戦争で敗れた後は、イギリス続いてスペインが西フロリダを統治した。この西フロリダの時代に、13植民地での迫害を逃れようとしたイギリス人ロイヤリストを多く集めた。その後1810年に西フロリダ革命が起こり、90日間続いた西フロリダ共和国の後で、この地域はアメリカ合衆国に併合された。 1810年、アメリカ合衆国大統領ジェームズ・マディソンが、西フロリダをルイジアナの一部だと宣言し、ウィリアム・C・C・クレイボーンを派遣してその領土を接収した。クレイボーンはフロリダ郡部(現在のルイジアナ州北東部8郡)の境界線を設定した。このときセントタマニー郡を設立し、郡名はデラウェア族インディアンの酋長タマネンド(1628年頃-1698年)に因んで名付けた。タマネンドはペンシルベニア州でウィリアム・ペンと友好関係を築いた人物であり、その善良さで知られている[5]。ルイジアナ州にはその州昇格以前に設立された郡名の頭に「セント」が付く郡が9つあるが、セントタマニー郡のみがローマ・カトリック教会から認知された聖人ではなかった。事実、タマネンドはキリスト教徒であったという確証はなく、ましてカトリック教徒ではなかった。しかし、その死後長い時間が経ったアメリカ独立戦争後の時代に、「アメリカの守護聖人」として民間に崇敬されていた。 1830年代初期、郡内には夏の避暑地であるコビントンと、造船と製材所の町であるマディソンビルの2つの町しかなかった。コビントンの南からポンチャートレイン湖北岸まで、東のミシシッピ州との州境であるパール川までの地域は、コビントン低地と呼ばれていた。この地域には現在のマンデビル、アビタスプリングス、ラコーム、スライデル、パールリバーの町ができた。マンデビルは1834年に設立され、地域の多くの樹木から発されるオゾンが健康に良いと信じられ(後に嘘だと分かった)、地域の名前として「オゾン・ベルト」が広まったので、ニューオーリンズの富裕層のための保養地として発展した。ポンチャートレイン湖を渡す渡し舟の定期便運行が始まり、その後間もなくもう一つの保養地としてアビタスプリングスの町が造られた。1880年代に建設された鉄道がコビントンから、アビタスプリングス、マンデビルを通ってニューオーリンズと繋がれ、特にアビタスプリングスは地下水の泉水が健康浴に良いとされたので、大きく成長した。
歴史
前史時代
西フロリダ
郡の創設と命名
19世紀
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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