この項目では、イギリスの競走馬について説明しています。セントサイモンのその他の用法については「サン=シモン」をご覧ください。
セントサイモン
セントサイモンの写真
品種サラブレッド
性別牡
毛色鹿毛
生誕1881年
死没1908年4月2日
父ガロピン (Galopin)
母セントアンジェラ (St.Angela)
生国 イギリス
生産者バッチャーニ・グスターヴ
馬主バッチャーニ・グスターヴ
→第6代ポートランド公爵
調教師ジョン・ドーソン
→マシュー・ドーソン
厩務員チャールズ・フォーダム
競走成績
生涯成績10戦10勝(非公式1戦含む)
獲得賞金4,676ポンド
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セントサイモンあるいはサンシモン (St. Simon) は、19世紀末に活躍したイギリスの競走馬である。以後のサラブレッドに絶大な影響を残した馬で、史上もっとも偉大なサラブレッド種牡馬と言われることもある。異名は「煮えたぎる蒸気機関車」 (Blooming steam-engine) 。
馬名表記は、由来による「サンシモン」、英語による「セントサイモン」の2通りあるが、この記事ではより一般的な「セントサイモン」で統一する(詳細は下記参照)。 デビュー前は見栄えのしない馬体や血統のため期待されておらず、さらに元の馬主が死亡したため当時のルールによりクラシックを戦う事はできなかった。代わりに下級戦やマッチレース、古馬の上級戦に出走を続け、10戦無敗の成績を残した。殆どのレースが圧勝で、アスコットゴールドカップやグッドウッドカップは20馬身差の勝利だった。クラシックへの出走は無かったものの、グッドウッドカップで同世代のクラシックホースを軒並み蹴散らしている。 1886年から種牡馬となった。セントサイモンは種牡馬として空前の成功を収め、牡馬と牝馬で1頭ずつの三冠馬を産出し、クラシックを全勝した年(1900年)すらあった。その血統はイギリスに留まらず世界中に拡散し、サラブレッドの血統に多大な影響を残した。27歳の時に心臓麻痺で死亡するが、その後半世紀を待たずにセントサイモンの血を持たないサラブレッドはほぼ姿を消した。現在、セントサイモンの血を持たないサラブレッドは存在しないと言われている。 サラブレッドの血統表中でセントサイモンが占める割合は大きい。ヴァイエが20世紀初頭にイギリスの大レース勝ち馬の12代血統表中の遺伝的影響を数値化したところ、19世紀以降の馬ではセントサイモンが最大であった(次点はガロピン)。また、2008年にサラブレッドタイムズで発表された同様の研究でもノーザンダンサーを上回りセントサイモンが最大であった。なお、後者の研究では、セントサイモンの影響が強いヨーロッパではなく主にアメリカの馬が調査対象となったこと、13代以前の馬は対象外となるため古い馬の数値は見かけ上低下する[注 1]といった不利な事実にも拘らず、現代の米国血統表において最も影響のある種牡馬であったと注記されている[1][2]。 馬名はバッチャーニが傾倒していたフランスの社会主義思想家・アンリ・ド・サン=シモンが由来。日本では「セントサイモン」と呼称される場合が多いが、由来に従い「サンシモン」と表記する場合もある[3]。 セントサイモンは、1881年にイギリス・東部イングランド・サフォーク州にあるニューマーケットの近くでセントアンジェラの8番目の仔として生まれた。父はエプソムダービー馬ガロピン。生産者はハンガリーの貴族バッチャーニ・グスターヴである。彼は1838年にイギリスに帰化した後、1843年には自分の牧場を開いた。1859年にはジョッキークラブの一員となり、1875年にはガロピン (Galopin) でエプソムダービーを制したが、この頃から心臓を患うようになっていた。 バッチャーニのお気に入りだった父ガロピンは、負ける姿を見させたくないという側近の配慮によりその年限りで引退し、翌年からウィリアム・バローズの牧場で種牡馬生活へと入っている。だが、血統の悪さや、気性難で知られていたブラックロック (Blacklock) のインブリードを持っていたことにより全く人気がなく、初年度100ギニーだった種付け料が翌年からは50ギニーへと下げられている。交配相手も年に10数頭と少なく、しかもバッチャーニの所有馬ばかりという有様であった[4]。 そんな中、バッチャーニによってセントサイモンの母セントアンジェラ (St. Angela) はガロピンと何度か交配された。1879年には後にエクリプスステークスを連覇するオームの母アンジェリカ (Angelica) が生まれ、セントアンジェラが16歳となる1881年にはセントサイモンが生まれている。 セントサイモンが仔馬の頃どのような馬であったかについては殆ど伝えられていない。僅かにドーソンが「厩舎に来たばかりのころはまるで牛のように鈍重で、兎のような動きをする目立たない馬だった」と述べている[5]。 2歳になるとバッチャーニが傾倒していたフランスの社会主義思想家「アンリ・ド・サン=シモン」から名前をもらい「セントサイモン」と名付けられた。だがその年の5月、生産者そして当時の馬主であるバッチャーニが、自身の持ち馬ガリアードが優勝した2000ギニーの僅か30分前に心臓麻痺で急死する。そのためセントサイモンを含むバッチャーニの持ち馬は7月のジュライセールに上場された。このセールには4年前にポートランド公爵とその財産・牧場を相続したウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンクと、その持ち馬を管理していた調教師マシュー・ドーソンがフルメンという名の馬を手に入れるために訪れており、その馬が高くて買えなかったため何か気になるところのあった隣の馬房のセントサイモンを1600ギニーの手ごろな価格で競り落とした。 さほど高額にならなかった理由として、成長後で体高(肩までの高さ)16.1ハンド(約164cm)の雄大な馬格を誇っていたものの、胴が詰まりのろのろと歩くその様は見栄えのいいものではなかったこと、血統の悪さ、さらに既にクラシック登録(正確にはバッチャーニの方針により元々2000ギニーにしか登録がなかった)、及びフュチュリティ等の主要2歳戦の登録が締め切られ、その登録が馬主死亡のため無効(1928年にこの規則は廃止)になり出走権が失われたこと等が災いした。また、バッチャーニの元でセントサイモンを管理していたジョン・ドーソン(マシュー・ドーソンの兄)がこの馬を手放したくなかったためわざと太らせた上で汚くして見栄えを悪くしていたという話もある[6][7]。このセールでは父ガロピンが8000ギニーでヘンリー・チャップリン[注 2]に売却され、母セントアンジェラが320ギニーでレオポルド・ド・ロスチャイルドに売却されフランスに渡っている。 父ガロピンについては前述(#出生)、詳細についてはガロピンを参照。
概要
おもな勝ち鞍
エプソムゴールドカップ(1884年)
アスコットゴールドカップ(1884年)
グッドウッドカップ(1884年)
種牡馬成績
イギリスチャンピオンサイアー9回
チャンピオンブルードメアサイアー6回
馬名について
生い立ち
出生
2歳(デビューまで)
血統背景
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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