セントクラウド
St. Cloud
ダウンタウンの5thアベニューに建ち並ぶ建物
愛称: The Granite City
右: ミネソタ州におけるスターンズ郡の位置
左: スターンズ郡におけるセントクラウドの市域
右: ミネソタ州におけるスターンズ郡の位置
左: スターンズ郡におけるセントクラウドの市域
北緯45度33分14秒 西経94度10分13秒 / 北緯45.55389度 西経94.17028度 / 45.55389; -94.17028
セントクラウド (St. Cloud) は、アメリカ合衆国ミネソタ州中部に位置する都市。ミネアポリス・セントポールの北西約100km、ミシシッピ河畔に位置する。市域の大部分はセントクラウドに郡庁を置くスターンズ郡内に広がっているが、一部は隣接するベントン郡およびシャーバーン郡にもかかっている。人口は65,842人(2010年国勢調査)[2]。スターンズ・ベントン両郡から成る[3]都市圏は189,093人(2010年国勢調査)[2]の人口を抱えている。より広域的には、セントクラウドは人口350万人を超えるミネアポリス・セントポールの広域都市圏に含まれる。市名はフランス・パリ西郊の町サン=クルーに由来しており、その大元は6世紀のフランスの僧侶の名に由来している。 現在のセントクラウド市があるこの地には、何千年にもわたって様々な部族の先住民が住んできた。ヨーロッパ人がこの地で先住民と取引を始めた頃には、この地にはオタワ族、オジブワ族、およびホーチャンク
目次
1 歴史
2 地理
2.1 気候
3 政治
4 交通
5 教育
6 文化と名所
7 人口動態
7.1 都市圏人口
7.2 市域人口推移
8 姉妹都市
9 脚注
10 外部リンク
歴史
やがて1849年にミネソタ準州が成立した後、1851-52年にかけてホーチャンク族との条約交渉が行われ、この地への入植が始まった[4]。フランス系ユグノー教徒の子孫で、ナポレオン・ボナパルトに関心を持っていた、メイン州出身のジョン・ウィルソンは、ナポレオンがお気に入りの住居を構えていたパリ西郊の町サン=クルー(綴り: Saint-Cloud)にちなんで、この入植地をその英語読みでセントクラウドと名付けた。 セントクラウド市内を走るレッド・リバー荷車(1887年)
セントクラウドは、レッド・リバー・トレイルと呼ばれた、カナダとの国境の町ペンビナ(現ノースダコタ州)とセントポールとを結ぶ、メイティ(ヨーロッパ人入植者と先住民との混血)の交易路上の中間点にあった。行き交う荷車の列はしばしば牛車数百台にものぼった。この交易路でやってきて毛皮を売り、生活必需品に替えて彼らの居住地に持ち帰っていたメイティは、セントクラウドの西で野営し、セントクラウドで、もしくはそのすぐ北のソークラピッズでミシシッピ川を渡っていた。
セントクラウドは1856年に市として正式に法人化された。この市はもともと、1853年からヨーロッパ人による入植が始まった、アッパータウン、ミドルタウン、ロウアータウンと呼ばれた3つの入植地から発展した[5]。今日においても、これら3つの入植地を分けていた谷の遺構を見ることができる。「アルカディア」とも呼ばれたアッパータウンは、ケンタッキー州から奴隷を連れてやってきた交易家、シルバナス・ロウリー将軍によって区画された[6]。ロウリーは1852-53年に準州議員を務めた後、1856年にセントクラウドの初代市長となり、1年だけ務めた[6][7]。ミドルタウンは主にドイツ系のカトリック系移民と、東部諸州からの移住者によって創設された。彼らは、先住民への伝道のためにこの地に赴いたフランシス・ザビエル・ピアーツ神父に率いられて、この地にやってきた。ロウアータウンは、ニューイングランド北部やアップステート・ニューヨークなどからの入植者によって創設された。
当時、ミネソタ準州は奴隷制の認められていない「自由準州」とされていたにもかかわらず、前述の通り、ロウリーはこの地に奴隷を連れてやってきた。これに対し、ピッツバーグからセントクラウドに移り住んだ、奴隷制廃止論者で新聞記者のジェーン・グレイ・スイスヘルムは、紙上で幾度にもわたってロウリーを攻撃した。ある時、ロウリーは「自警団」を組織し、スイスヘルムの新聞社に押し入り、彼女の書いた記事を持ち去り、ミシシッピ川に投げ捨てた。そしてロウリーは、セントクラウド・タイムズ紙の前身となる、The Unionという対抗紙を創刊した[7]。その後、ロウリーは1862年にミネソタ州議会上院議員に選出されたが、1865年にセントクラウド市内で死去した[6][8]。