『セロ弾きのゴーシュ』(セロひきのゴーシュ)は、宮沢賢治の童話。活動写真館(映画館)の楽団[注釈 1]に勤める技量の未熟なチェリストが、動物たちとの交流により演奏技術を向上させる姿を描く。賢治が亡くなった翌年の1934年に発表された作品である。 賢治には、実際にチェロを練習した経験がある。賢治は農民の啓発と生活改善を目的とした「羅須地人協会」を主催していた時代に、農民楽団の実現と自作の詩に曲を付けて演奏することを目指して、1926年にチェロを購入、練習した。これには当時賢治の親友で、花巻高等女学校(岩手県立花巻南高等学校の前身)の音楽教諭であった藤原嘉藤治の影響も考えられている。1926年に上京した際には、新交響楽団(NHK交響楽団の前身)の楽士だった大津三郎の自宅に練習のために通っている。賢治は「三日でチェロを演奏できるようになりたい」と頼み、大津は困惑しながらもレッスンを引き受けた。またこのレッスンは1928年の上京時にも行われたのではないかという説がある。 また、賢治が独習本(平井保三著『ヴィオロン・セロ科』)を抜粋して筆写したものが現存している。このように熱心にチェロに取り組んだが、お世辞にも演奏はうまいとはいえず、「ゴーゴースースー」と鳴るような状態だったと伝えられる。『校本 宮沢賢治全集』の解説によると、ノートの字体は1925年(大正14年)から1927年(昭和2年)頃までの書簡などと一致するとされている。チェロには楽器メーカーのラベル上に賢治の直筆で「1926.K.M」と署名が入っており、これは賢治が花巻農学校を辞職し、羅須地人協会の生活を始めた年と合致する[1]。 このチェロは後に藤原嘉藤治のチェロと交換された。藤原のチェロにはゴーシュのゼロと同じく、筐体に孔が開いていた。賢治のチェロは戦争中は藤原が所有していたために、賢治の実家の空襲被害から免れることができた[2]。現在、花巻市の宮沢賢治記念館[3]にて、賢治の妹トシが愛用したヴァイオリンに寄り添って保管されている。1995年12月下旬にチェロ、ヴァイオリン共に弦楽器弓製作者の手によって修復されたため、どちらも楽器として使える状態にある。1998年の時点では今後の管理について当時の宮沢賢治記念館館長だった宮沢雄造(宮沢清六の女婿)は、今後は外に出さずに大切に扱いたいと述べていた[4]。長年保存のため演奏はほとんどされなかったが、楽器を長持ちさせるには定期的に演奏をした方がよいとの専門家の意見があり、2009年の報道では演奏の方法などを記念館で検討するとしていた[5]。 1996年、賢治生誕100年を記念し、花巻市は世界的チェロ奏者ヨーヨー・マを招き演奏会を開催した。賢治の使用していたチェロで、「セロ弾きのゴーシュ」にも登場するシューマン作曲「トロイメライ」(原作での登場名はロマチックシューマン作曲「トロメライ」)が演奏された。 2016年9月に花巻市で開かれた賢治生誕120周年の記念イベントでは、このチェロをチェリストの藤原真理が演奏した[6]。 ゴーシュは町の活動写真館の楽団「金星音楽団」でセロ(チェロ)を弾く係。楽団では近く町の音楽会で演奏予定の『第六交響曲』の練習を続けていたが、あまりにも下手なためにいつも楽長に厳しく叱責されていた。そんなゴーシュのもとに、カッコウを始め様々な動物が夜毎に訪れ、いろいろと理由を付けてゴーシュに演奏を依頼する。そうした経験を経た後の音楽会本番で「第六交響曲」の演奏は成功し、司会者が楽長にアンコールを所望すると、楽長はゴーシュを指名した。ゴーシュは馬鹿にされたと思って立腹しながらも、動物たちの訪問を思い出しつつ、「印度の虎狩り」という曲を夢中で演奏する。その演奏は楽長を初めとする他の楽団員から賞賛を受けることになった。
賢治とチェロ
あらすじ
登場人物
ゴーシュ
この作品の主人公。名前はフランス語の「不器用な」(gauche