セルヒオ・オスメニャ
[Wikipedia|▼Menu]

セルヒオ・オスメニャ
Sergio Osmena


フィリピン自治領
第4代 大統領
任期1944年8月1日1946年5月28日
フィリピン自治領
初代 副大統領
任期1935年11月15日1944年8月1日
大統領マニュエル・ケソン
フィリピン自治領
第3代 公共教育保健福祉大臣
任期1941年12月24日1944年8月1日
大統領マニュエル・ケソン
フィリピン自治領
初代 公共教育大臣
任期1935年1940年
大統領マニュエル・ケソン
アメリカ フィリピン諸島自治領
第2代 上院議長代行
任期1922年1934年
上院議長マニュエル・ケソン
アメリカ フィリピン諸島自治領
第10地区選出上院議員
任期1922年1935年11月15日
アメリカ フィリピン諸島自治領
初代 下院議長
任期1907年10月16日1922年
アメリカ フィリピン諸島自治領
セブ第2地区選出下院議員
任期1907年10月16日1922年
セブ州
知事
任期1904年1907年10月16日

出生 (1878-09-09) 1878年9月9日
スペイン領東インド
セブ州 セブ市
死去 (1961-10-19) 1961年10月19日(83歳没)
フィリピン
ケソン市
政党国民党
出身校聖トマス大学
配偶者エスペランザ・オスメニャ
宗教カトリック
署名

セルヒオ・オスメニャ(Sergio Osmena, 1878年9月9日 - 1961年10月19日)は、フィリピン政治家。第4代フィリピン共和国大統領。米領フィリピン自治領時代では2番目の大統領。1944年に65歳で大統領に就任。これはロドリゴ・ドゥテルテが2016年に71歳で大統領に就任するまで、同国の最高齢就任だった。

セブ州知事、フィリピン下院議員兼初代議長、そして上院議員兼議長代行を務めた。1935年、マニュエル・ケソン上院議員の大統領就任の際、副大統領に就任、1941年の再選を経て、1944年に自身が大統領に就任するまで務めた。
人物

1878年セブで生まれ、サン・フアン・デ・レトランカレッジに学び、後に聖トマス大学法学を専攻する。米西戦争の影響で学業は中断を余儀なくされたが、1903年最高裁司法試験の受験を認め、次席で合格した。

1900年、自らが創設したセブの日刊紙「エル・ヌエボ・ディア(新時代)」において平和的手段を通じた独立運動を推進。1904年セブ州知事に就任。1906年、独立を綱領とする政党禁止令解除後の民族主義政党合従連衡により結成された国民党の初代党首となった。1907年の第一回総選挙で国民議会議員に当選。1916年二院制議会では下院議長に就任。1923年には上院議員に選出された。

1933年、独立使節団として尽力したアメリカ議会のヘア・ホーズ・カッティング法(10年後の独立承認)はマニュエル・ケソンの反対によりフィリピン議会で批准されず、タイディングス・マクダフィー法を持ち帰ったケソンが1935年コモンウェルス成立時の大統領となり、その下で副大統領となる。1944年8月にアメリカでケソンが病没した事により亡命政府の大統領に昇格した。1944年10月23日、ダグラス・マッカーサーとともにレイテ島レイテ湾に帰還してタクロバンでコモンウェルス政府の復活を宣言、1945年2月27日、マニラに帰還した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:16 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef