セルジ・サルキシャン
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2010年のサルキシャン
アルメニア共和国
第3代 大統領
任期2008年4月9日 – 2018年4月9日
アルメニア共和国
第11代 首相
任期2007年3月26日 – 2008年4月9日
アルメニア共和国
第15代 首相
任期2018年4月17日 – 2018年4月23日
出生 (1954-06-30) 1954年6月30日(66歳)
ソビエト連邦
アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国ナゴルノ・カラバフ自治州ステパナケルト
政党アルメニア共和党
配偶者リタ・サルキシャン
署名
セルジ・サルキシャン(アルメニア語: ???? ????????、1954年6月30日[1] - )は、アルメニア共和国の政治家。コチャリャン大統領の下で首相を務めた後、2008年2月の選挙で自身が議長(党首)を務める保守系のアルメニア共和党の支持を受けて当選し[2]、同年4月に大統領に就任[3]、2018年4月まで2期務めた。姓はサルグシャンとも表記される。
セルジの下で後任の首相を務めた同姓のチグラン・サルキシャンとも、以前に首相であったワスゲン・サルキシャン、アラム・サルキシャン
(英語版)兄弟とも[4]血縁ではない。目次1954年6月30日、アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国のナゴルノ・カラバフ自治州で、州都ステパナケルトに生まれた。1971年にエレバン州立大学へ入学したものの、1971年から1972年の間はソ連軍に勤務し、1979年にエレバン州立大学言語学専攻を卒業した。1975年から1979年までエレバンの電気装置工場で旋盤工として働いていた[5]。1979年にステパナケルト市のコムソモールの委員会課長に就任。その後、第二書記官、第一書記官、ステパナケルト市委員会宣伝・煽動課長、ナゴルノ・カラバフ自治州の共産主義団体の教官を歴任し、最後にナゴルノ・カラバフ自治州の第一書記であったゲンリフ・ポゴシャン(英語版)の補佐官を務めた[1][6]。
1989年、ナゴルノ・カラバフ自治州でアルゼバイジャン人とアルメニア人の間に緊張が起こったため、サルキシャンはナゴルノ・カラバフ共和国自衛軍委員会の委員長となり、その後1990年にアルメニア国民議会議員に選出された[5][6]。彼はナゴルノ・カラバフ戦争においていくつかの戦闘を組織し、アルメニア軍創設者の一人と考えられている[7]。1993年にはアルメニアの国防相となり、1995年には国家安全保障局長、1996年には安全保障担当大臣となった。その後、1999年にはロベルト・コチャリャン大統領のもとで大統領府長官となり、その後も国家安全保障会議書記や国防相を歴任し、2007年には首相となった[1][6]。1999年に発生したワスゲン・サルキシャン首相暗殺事件においては、コチャリャンとともに事件を裏で操っていたとの主張が、政敵によってなされている[4]。
2008年大統領選挙[ソースを編集]
大統領ロベルト・コチャリャンの支持を受けたサルキシャンは、2008年の大統領選挙において最有力候補であると見られていた。彼は1回目の投票で半数を超える53 %の得票率を獲得し、対立候補で初代大統領でもあったレヴォン・テル=ペトロシャンに勝利した[8]。ペトロシャンの支持者はこの公式結果に異議を唱え、選挙後から1週間に渡って首都エレバンで大規模な抗議活動を行った。衝突によって死者が出た事から、3月1日から3月20日まで非常事態宣言が発令された[9][10]。
大統領[ソースを編集]
2008年4月9日、大統領に就任した[11]。就任後、アルメニア中央銀行の総裁であり、政権与党のメンバーではないチグラン・サルキシャンを首相に任命した[12]。カラバフ委員会の元メンバーであり著名な野党党員であるワズゲン・マヌキャンは、反対はしているが「この政府が成功するために全力を尽くすだろう」と述べた[13]。4月18日、サルキシャンはアルメニア税関に対し「その集団の中では腐敗が「繁栄」していて国家の経済的繁栄を妨げている」と著しく攻撃した[14]。彼は後にエレバンで起こった抗議活動の正当性を認め[15]、政府による異議の弾圧をやめるよう求める欧州評議会の要求に対応することを誓った[16]。
外交政策[ソースを編集] エレバンにてヒラリー・クリントン国務長官と。2012年6月4日 アルメニアにてドミートリー・メドヴェージェフと。