セルジオ・ペレス
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この項目では、F1ドライバーについて説明しています。野球選手については「セルジオ・ペレス (野球)」をご覧ください。
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の)はペレス、第二姓(母方の)はメンドーサです。この記事の項目名には以下のような表記揺れがあります。

セルヒオ・ペレス

セルジオ・ペレス
Sergio Perez
セルジオ・ペレス
(2019年)
基本情報
国籍 メキシコ
生年月日 (1990-01-26) 1990年1月26日(34歳)
セルジオ・ミッチェル・ペレス・メンドーサ
Sergio Michel Perez Mendoza
出身地 メキシコ
ハリスコ州グアダラハラ

基本情報
略称表記PER
F1での経歴
活動時期2011-
過去の所属チーム'11-'12 ザウバー
'13 マクラーレン
'14-'18 フォース・インディア
'18-'20 レーシング・ポイント
所属チーム'21- レッドブル
車番11
出走回数269 (265スタート)
タイトル0
優勝回数6
表彰台(3位以内)回数39
通算獲得ポイント1,593
ポールポジション3
ファステストラップ11
初戦2011年オーストラリアGP
初勝利2020年サヒールGP
2023年順位2位 (285ポイント)
(記録は2024年第8戦モナコGP終了時)
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署名

セルジオ・ミッチェル・"チェコ"・ペレス・メンドーサ(Sergio Michel Perez Mendoza, 1990年1月26日[1] - ) は、メキシコハリスコ州グアダラハラ出身のレーシングドライバー。兄はNASCARメキシコ(NASCAR Corona Series)のレーシングドライバーのアントニオ・ペレス。「チェコ(Checo)」の愛称で親しまれている。
経歴
メキシコ国内(少年期)

1997年よりカートを始め、メキシコ国内の様々なカテゴリのカートレースに参戦した。2003年には国内最高峰である125ccカート選手権で3位の成績を収めた。兄弟揃ってカルロス・スリムがCEOを務めるテルメックスグループから支援を受け、その後のレースキャリアにおいて深い関係を築いた。

2004年よりテルメックスがレーシングチームを置くカテゴリの1つであるSkip Barber National Championshipから出走し、シリーズ11位となった。
渡欧後のレース

2005年にベルリンへ渡り、ドイツフォーミュラ・BMWに参戦。ケケ・ロズベルグが構えるチーム・ロズベルグにてシリーズ14位。2006年はADACベルリン・ブランデンブルクチームに移籍しシリーズ6位の戦績で終えた。

2006年から2007年のA1グランプリで2戦のみA1チーム・メキシコからスポット参戦したもののノーポイントに終わった。2007年よりイギリスF3ナショナルクラス[2][3]に参戦し、21戦中14回のポールポジションと14勝を記録し圧勝でチャンピオンを獲得した。翌2008年はイギリスF3メジャークラスへと昇格し、優勝4回を記録してシリーズ4位となった。
GP2

その後、2008年から2009年のGP2アジアシリーズに参戦。GP2シリーズでは強豪として数えられていたカンポス・レーシングから出走し、優勝2回を獲得し、シリーズ7位となった。2009年のGP2シリーズではアーデン・インターナショナルに移籍しシリーズ12位。

2009年から2010年のGP2アジアシリーズにはバルワ・アダックス・チームから参戦したが、5ポイントのみの獲得に終わった。しかし、2010年のGP2シリーズではパストール・マルドナドとチャンピオン争いを繰り広げ、モナコの第1レースで優勝を果たすなど5勝を収めたが、マルドナドに16ポイント引き離されシリーズ2位に終わった。
F1
ザウバー
2011年ヘレスでテストを行うペレス

2010年10月4日、ザウバーはセルジオ・ペレスを2011年の正ドライバーとして起用する事を発表した。このリリースと同時にテルメックスが2011年よりザウバーのスポンサーを行うことも発表された[4]。また、フェラーリ・ドライバー・アカデミー (FDA) に加入することになった[5]

迎えた開幕戦オーストラリアGPでは、予選は13番手に終わるものの、決勝では他のドライバーが2ストップあるいは3ストップ作戦の中、唯一1ストップで完走。7位入賞となり、デビュー戦での入賞かと思われたが、マシンのリアウィングの車両規定違反が発覚。チームメイトで8位に入賞した小林可夢偉と共に失格処分となってしまった[6]。第5戦スペインGPでは予選で12番手を獲得。決勝は9位となり、記録上での初入賞を果たした。

第6戦モナコGPでは木曜フリー走行から好タイムを叩き出し、予選でも自身初となるQ3進出を決めた。しかし、トンネル直後のヌーベルシケイン手前の路面バンプを拾ってしまい、バランスを崩してウォールに激突。時速260km/hを保ったままスライドした状態でシケインにあるスポンジバリアに側面から激突し、40G以上の強い衝撃を受けた。予選は赤旗中断となり、脳震盪と脚に捻挫を負ったのみの軽症で済んだが、決勝は欠場となった[7]。第7戦カナダGPには出場する予定となっていたが[8]、金曜フリー走行1を終えた時点で体調不良を訴え、以降のセッションを欠場した[9]。この年は、小林の30ポイントに対して14ポイントにとどまった。
2012年2012年カナダGP

2012年もザウバーより参戦。開幕戦では再び1ストップ戦略を遂行するも、最終ラップで他車との接触があり8位入賞[10]

次の第2戦マレーシアGPでは、予選10番手を記録し上位マシンの降格により9番手からスタート。スタート前から降り続いていた雨が激しくなると読み、いち早くウェットタイヤに交換すると豪雨による赤旗中断までに3位へ。中盤で2位に上がり、先頭を走るフェルナンド・アロンソに約5秒差から1秒差まで近づくも、ドライタイヤへ戻すタイミングが悪くまた5秒差へ。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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