この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "セルゲイ・ラフマニノフ"
セルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマニノフ
Серге?й Васи?льевич Рахма?нинов
1921年
基本情報
出生名Серге?й Васи?льевич Рахма?нинов
生誕1873年4月1日
ロシア帝国
ノヴゴロド州 セミョノヴォ
出身地 ロシア帝国 ノヴゴロド州 オネグ
死没 (1943-03-28) 1943年3月28日(69歳没)
アメリカ合衆国 カリフォルニア州
ロサンゼルス郡ビバリーヒルズ
学歴モスクワ音楽院ピアノ科
モスクワ音楽院作曲科
ジャンルクラシック音楽
職業作曲家
ピアニスト
指揮者
担当楽器ピアノ
活動期間1892年 - 1943年
セルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマニノフ(Серге?й Васи?льевич Рахма?ниновロシア語: [s??r???ej v??s?il?j?v??t?? r?x?man??n?f]、ラテン文字転写例: Sergei Vasil'evich Rachmaninov[注釈 1]、1873年4月1日(当時ロシアで用いられていたユリウス暦では3月20日) - 1943年3月28日)は、ロシア帝国出身の作曲家、ピアニスト、指揮者。
生涯
生い立ちラフマニノフ(1885年)
1873年4月1日(ユリウス暦では3月20日)、モルダヴィア公・シュテファン3世の孫で "Rachman" の愛称で呼ばれた "ヴァシーリー" の子孫とされる[1][2]父ヴァシーリイ・アルカージエヴィチと、母リュボーフィ・ペトローヴナの第3子としてノヴゴロド州セミョノヴォに生まれ[注釈 2]、幼少期を同州オネグで過ごした。父母ともに裕福な貴族の家系の出身で、父方の祖父はジョン・フィールドに師事したこともあるアマチュアのピアニスト、母方の祖父は著名な軍人だった。父親は音楽の素養のある人物だった[注釈 3]が、受け継いだ領地を維持していくだけの経営の資質には欠けていたようで、セルゲイが生まれたころには一家はすでにかなり没落していたという。ノヴゴロド近郊のオネグは豊かな自然に恵まれた地域で子ども時代を過ごした。
4歳のとき、姉たちのために雇われた家庭教師がセルゲイの音楽の才能に気がついたことがきっかけで、彼のためにペテルブルクからピアノ教師としてアンナ・オルナーツカヤが呼び寄せられ、そのレッスンを受けた。9歳のとき、ついに一家は破産し、オネグの所領は競売にかけられ、ペテルブルクに移住した。まもなく両親は離婚し、父は家族の元を去っていった。セルゲイは音楽の才能を認められ、奨学金を得てペテルブルク音楽院の幼年クラスに入学することができた。
しかし彼は、12歳のときにすべての学科の試験で落第するという事態に陥った。悩んだ母は、セルゲイにとって従兄にあたるピアニストのアレクサンドル・ジロティに相談し、彼の勧めでセルゲイはモスクワ音楽院に転入し[4]、ニコライ・ズヴェーレフの家に寄宿しながらピアノを学ぶことになった。
音楽家としての出発ズヴェーレフとその弟子たち
ズヴェーレフは厳格な指導で知られるピアノ教師で、ラフマニノフにピアノ演奏の基礎を叩き込んだ。ズヴェーレフ邸には多くの著名な音楽家が訪れ、特に彼はピョートル・チャイコフスキーに才能を認められ、目をかけられた。モスクワ音楽院ではアントン・アレンスキーに和声を、セルゲイ・タネーエフに対位法を学んだ。のちにはジロティにもピアノを学んだ。同級にはアレクサンドル・スクリャービンがいた。ステパン・スモレンスキイの正教会聖歌についての講義も受け、後年の正教会聖歌作曲の素地を築いた。
ズヴェーレフは弟子たちにピアノ演奏以外のことに興味を持つことを禁じていたが、作曲への衝動を抑えきれなかったラフマニノフはやがて師と対立し、ズヴェーレフ邸を出ることになった。彼は父方の伯母の嫁ぎ先にあたるサーチン家に身を寄せ、そこで未来の妻となるナターリヤと出会った。このあと、彼は毎年夏にタンボフ州イワノフカにあるサーチン家の別荘を訪れて快適な日々を過ごすのが恒例となった。
1891年、18歳でモスクワ音楽院ピアノ科を大金メダルを得て卒業した。金メダルは通例、首席卒業生に与えられたが、当時双璧をなしていたラフマニノフとスクリャービンは、どちらも飛び抜けて優秀であったことから、金メダルをそれぞれ首席、次席として分け合った(スクリャービンは小金メダル)。同年『ピアノ協奏曲第1番 嬰へ短調』(作品1)を完成させた。
1892年、同院作曲科を卒業、卒業制作としてオペラ『アレコ』をわずか数日のうちに書き上げ、金メダルを授けられた。同年10月8日(ユリウス暦では9月26日)にモスクワ電気博覧会で『前奏曲 嬰ハ短調《鐘》』(作品3-2)を初演した。この曲は熱狂的な人気を獲得し、ラフマニノフの代名詞的な存在になった。
翌1893年5月9日(ユリウス暦では4月27日)、『アレコ』がボリショイ劇場で上演された。同年11月6日、チャイコフスキーが亡くなると、追悼のために『悲しみの三重奏曲第2番 ニ短調』(作品9)を作曲した。 ラフマニノフは1895年に『交響曲第1番 ニ短調』(作品13)を完成させ、2年後の1897年にはアレクサンドル・グラズノフの指揮によりペテルブルクで初演されたが、これは記録的な大失敗に終わった。特にツェーザリ・キュイが「エジプトの七つの苦悩」に例えて容赦なくこき下ろしたのはよく知られている。この曲はラフマニノフの存命中は二度と演奏されることはなかった。失敗の原因として、グラズノフの指揮が放漫でオーケストラをまとめ切れていなかった可能性[注釈 4]や、ペテルブルクがラフマニノフの属したモスクワ楽派とは対立関係にあった国民楽派の拠点だったことの影響などが指摘されている。 この失敗によりラフマニノフは神経衰弱ならびに完全な自信喪失となり、ほとんど作曲ができない状態に陥った。
挫折