セルゲイ・ボンダルチュク
Сергей Бондарчук
1969年
本名Серг?й Федорович Бондарчук
Sergei Fyodorovich Bondarchuk
生年月日 (1920-09-25) 1920年9月25日
没年月日 (1994-10-20) 1994年10月20日(74歳没)
出生地 ソビエト連邦
ウクライナ社会主義ソビエト共和国 ヘルソン県(現在のヘルソン州)ビロゼールカ
受賞
アカデミー賞
外国語映画賞
1968年『戦争と平和』
ニューヨーク映画批評家協会賞
外国語映画賞
1968年『戦争の平和』
ゴールデングローブ賞
外国語映画賞
1968年『戦争の平和』
その他の賞
モスクワ国際映画祭
最優秀作品賞
1959年『人間の運命』ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞
外国語映画賞
1968年『戦争と平和』
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セルゲイ・フョードロヴィチ・ボンダルチュク(ロシア語:Сергей Фёдорович Бондарчук スィルギェーイ・フョーダラヴィチュ・バンダルチューク、セルヒーイ・フェードロヴィチ・ボンダルチューク、ウクライナ語:Серг?й Федорович Бондарчук セルヒーイ・フェードロヴィチュ・ボンダルチューク、1920年9月25日 - 1994年10月20日)は、ソビエト連邦(ソ連)・ウクライナ・ロシアの俳優、映画監督、脚本家である。 ウクライナ・ソヴィエト戦争末期の1920年秋、ウクライナのヘルソン県(現在のヘルソン州)ビロゼールカ
経歴
その後演劇の道を志し、1937年にタガンローク劇場で初舞台を踏んだ。1938年にはタガンロークの学校を卒業し、1942年までロストーフ・ナ・ドヌー演劇学院で学んだ。その後、時代は熾烈な独ソ戦に突入した。
戦後、1948年には全連邦国立映画大学 (VGIK) を卒業した。同年には映画デビューを果たし、ウクライナにおける独ソ戦を描いたセルゲイ・ゲラシモフ監督の『青年親衛隊』(≪Молодая гвардия≫) に出演した。1951年に出演した『タラス・シェフチェンコ』(≪Тарас Шевченко≫) はヨシフ・スターリンからも高い評価を受け、翌1952年、32歳にしてソ連人民芸術家の称号を受けた。これは、同称号の保有者としては最年少の記録となった。
1956年にはウィリアム・シェイクスピア原作の『オセロ』のソ連での映画化で主人公のオセロ役で出演。ボンダルチュクは出演だけで監督はしていないが、作品自体はカンヌ国際映画祭で監督賞を受賞した。
1959年には初の監督作となる『人間の運命』(≪Судьба человека≫) が公開された。作品は高い評価を受け、ボンダルチュクはレーニン賞を受けた。
1960年には国際キャストが揃ったロベルト・ロッセリーニ監督のイタリア映画『ローマで夜だった』に出演。
レフ・トルストイの長編小説『戦争と平和』の映画化では、監督を務めるとともに、自ら主人公のピエール・ベズーホフ伯爵役で出演した。1966年(昭和41年)6月19日、同作第一部の日本公開のためナターシャ役のリュドミラ・サベーリエワ、アンドレイ役のヴャチェスラフ・チーホノフ、ボンダルチュクの妻でエレン役のイリーナ・スコブツェワらとともに日本を訪問。翌日の6月20日には、東京プリンスホテルで記者会見を行った。1967年に全編が完成し、ソ連のみならず西側諸国でも幅広く公開され、アカデミー賞外国語映画賞も授与される[1]など高い評価を受けた。
1970年には、ソ連とイタリアの合作となる歴史大作映画『ワーテルロー』の監督を務めた。同年、ソビエト連邦共産党に入党。1975年には『祖国のために』を監督・脚本を担当した。第28回カンヌ国際映画祭のコンペティション部門で上映された[2]。第49回アカデミー賞の外国語映画賞にはソ連代表として出品されたが、ノミネートには至らなかった[3]。1982年に『世界を揺るがした10日間』を下敷きに『赤い鐘(Red Bells)』を制作(副題に『世界を世界を揺るがした10日間』とつけている)。ボンダルチュクの最後の作品は英語作品のテレビシリーズで、ミハイル・ショーロホフの大河小説『静かなドン』。1992-1993年に撮影されたが、イタリアの制作スタジオの間で内容について論争が起こり、結果、撮影テープは使用されないよう銀行に保管された。死後の2006年に再発見され、ロシアのチャンネル1で放映された[4]。
死後は、功労者のみが入ることのできるモスクワのノヴォデヴィチ墓地へ葬られた。 生涯で2度結婚している。
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