セルゲイ・セルゲーエヴィチ・プロコフィエフ
Сергей Сергеевич Прокофьев
1918年、ニューヨーク
基本情報
生誕 (1891-04-27) 1891年4月27日
ロシア帝国、ソンツォフカ
死没 (1953-03-05) 1953年3月5日(61歳没)
ソビエト連邦、モスクワ
職業作曲家、ピアニスト
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セルゲイ・セルゲーエヴィチ・プロコフィエフ(ロシア語: Серге?й Серге?евич Проко?фьев;ラテン文字転写の例:Sergei Sergeyevich Prokofiev、1891年4月27日[注 1] - 1953年3月5日)は、ロシアの作曲家、ピアニスト、指揮者。数多くの形式の音楽に傑作を残したことで知られており、20世紀の大作曲家のひとりであると認知されている。確立された型や様式の中で作曲をおこない、作品にはオペラ『三つのオレンジへの恋』の行進曲、交響組曲『キージェ中尉』、バレエ音楽『ロメオとジュリエット』、音楽物語『ピーターと狼』といったような広く聴かれる楽曲がある。習作を除くと7作のオペラ、7作の交響曲、8作のバレエ音楽、5作のピアノ協奏曲、2作のヴァイオリン協奏曲、2作のチェロ協奏曲[注 2]、そして9作のピアノソナタがある。 帝政期のロシア(現ドネツィク州、ウクライナ東部)で生を受け、13歳で帝政ロシアの首都サンクトペテルブルクのサンクトペテルブルク音楽院で作曲・ピアノを学ぶ[2]。 1917年のロシア革命以後は、ソビエトの大臣であったアナトリー・ルナチャルスキーの公認を得てロシアを後にし、以後コスモポリタンとしてアメリカ合衆国、ドイツ、パリと居住地を移しながら作曲家、ピアニスト、指揮者として生計を立てた。この頃にスペイン出身の歌手であったカロリナ・コディナと結婚、2人の息子を儲けた。 1930年代の世界恐慌により欧米でバレエやオペラの上演機会が減少すると、1936年にスターリニズム、大粛清の吹き荒れる祖国(ソビエト連邦)へ戻る。築いた自分の知名度はスターリンのイデオロギー的プレッシャーから逃れられると目論んでいたが[3]、現実には難しく、ショスタコーヴィチと同様に「形式主義」であるとしてジダーノフ批判の対象となった。祖国では『キージェ中尉』、『ピーターと狼』、『ロメオとジュリエット』、『アレクサンドル・ネフスキー』などの作品が成功を収めた。奇しくもスターリンと同日の1953年3月5日(61歳没)にモスクワで亡くなる。 1891年にロシア帝国、エカテリノスラフ県バフムート郡のソンツォフカ(Сонцовка;ラテン文字転写の例:Sontsovka、現在のウクライナ、ドネツィク州、ソンツィフカ
概要
生涯
幼少期と最初の作曲プロコフィエフに最初に作曲の指導をした作曲家のレインゴリト・グリエール
既に2人の娘を失っていたマリヤは、プロコフィエフが生まれるまで音楽に人生を捧げていた。まだ息子が幼い頃にはピアノのレッスンを受けるためにモスクワもしくはサンクトペテルブルクで2か月を過ごしていた[11]。主としてショパンやベートーヴェンの作品を夕方に練習していた母のピアノの音色に触発されたセルゲイは、5歳で初めてのピアノ曲を作曲している。『インドのギャロップ』というこの作品は母が譜面に起こしたもので、幼いプロコフィエフが「黒鍵に取り組む気が起きなかった」という理由でヘ長リディア旋法で書かれている[12]。7歳までにはチェスの指し方も覚えた[13]。チェスへの情熱は燃え続け、チェスの世界王者であるホセ・ラウル・カパブランカと知り合いになり、1914年に行われた多面指しの模擬戦では勝利を収めている。ミハイル・ボトヴィニクとも面識があり、1930年代に幾度か対戦が行われた[14][注 3]。9歳になると最初のオペラ『巨人』や[注 4]、序曲、他の様々な小品を作曲していた。 1902年、母がモスクワ音楽院の学長を務めていたセルゲイ・タネーエフに出会い、アレクサンドル・ゴリデンヴェイゼルの下でプロコフィエフへのピアノと作曲の指導を開始すべきであると助言を受けた[16]。
正式な教育と議論を呼んだ初期作品