セルゲイ・ステパーシン
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ロシア連邦政治家セルゲイ・ステパーシンСергей Вадимович Степашин

生年月日 (1952-03-02) 1952年3月2日(72歳)
出生地 中華人民共和国 旅順
出身校レニングラード内務省高等政治学校
現職露日経済協議会代表
所属政党ヤブロコ(1999年から2000年まで)
称号法学博士
歴史学博士候補
配偶者タマラ・ウラジミロフナ・ステパーシナ
子女1人
ロシア連邦
第4代首相
在任期間1999年5月19日 - 1999年8月9日
大統領ボリス・エリツィン
ロシア連邦
第2代会計検査院議長
在任期間2000年4月19日 - 2013年9月20日
大統領 ウラジーミル・プーチン
ドミートリー・メドヴェージェフ
ウラジーミル・プーチン
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セルゲイ・ヴァディモヴィチ・ステパーシン(ステパシン、ロシア語: Серге?й Вади?мович Степа?шин、ラテン文字表記の例:Sergei Vadimovich Stepashin、1952年3月2日 - )は、ロシア連邦政治家ボリス・エリツィン政権にて第4代ロシア連邦首相を務めた。法学博士。ロシア法律家協会共同議長。
経歴・人物

1952年3月2日に中華人民共和国旅順にて、ソビエト連邦海軍軍人の家庭に誕生する。1973年、レニングラード(現在のサンクトペテルブルク内務省高等政治学校を卒業。国内軍特殊部隊勤務を経て、1981年、V.I.レーニン名称軍事政治アカデミーの教官となる。論文『大祖国戦争中のレニングラード火災における党の指導性』で歴史学博士候補の学位を取得した[1][2]

1990年4月、ロシア人民代議員に選出され、ロシア最高会議(ロシア語版)国防・治安委員長に就任する。1991年から1992年まで連邦保安局(AFB)サンクトペテルブルク市・レニングラード州局長、1992年から1993年まで保安省サンクトペテルブルク市・レニングラード州局長を務める。後に保安第一次官、ロシア連邦防諜庁(FSK)第一次官に就任。1994年2月にFSK長官、後にロシア連邦保安庁長官に任命される。

1994年12月の第一次チェチェン紛争ではロシア軍の侵攻を積極的に推進した。1995年6月、チェチェン武装勢力による人質事件の責任を取って事件後、FSB長官を辞任した。しかし、その後も1997年から法相1998年から内務大臣を務め、エリツィン政権では一貫して治安維持を担当した。

1999年5月、プリマコフ首相解任に伴い、治安維持畑での経歴を買われて首相に任命される。しかし、当初期待されたほどにエリツィン及び「ファミリー」と呼ばれたエリツィン一家、政商、側近を守ることが出来ないと判断されたため、8月に解任され、後任にはFSB長官のウラジーミル・プーチンが選ばれた。以後は、エリツィンに対して批判色を徐々に強め、1999年12月の下院選挙では、ヤブロコに加わりサンクトペテルブルク小選挙区から立候補し当選した。2000年4月に会計検査院議長に任命され、2013年9月20日まで務めた。また2008年から露日経済協議会代表を務めている。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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