セルゲイ・キーロフ暗殺事件
[Wikipedia|▼Menu]

セルゲイ・キーロフ暗殺事件

場所スモーリヌイ修道院(ロシア語版)
標的セルゲイ・キーロフ
日付1934年12月1日
武器銃
死亡者セルゲイ・キーロフ
犯人レオニード・ニコラーエフ(ロシア語版)
対処レオニード・ニコラーエフの親族の逮捕および銃殺
テンプレートを表示

セルゲイ・キーロフ暗殺事件(セルゲイ・キーロフあんさつじけん、Убийство Сергея Кирова, ウヴィーストヴァ・シェルゲーヤ・キーラヴァ)とは、1934年12月1日レニングラードにあるスモーリヌイ修道院(ロシア語版)レニングラード党本部の建物にて、ボリシェヴィキ全連邦共産党中央委員会書記の一人であるセルゲイ・キーロフ(Серге?й Ки?ров)が、同じく共産党員であるレオニード・ニコラーエフ(ロシア語版)の手で殺された出来事を指す[1]
背景
暗殺

レオニード・ニコラーエフは、1934年10月15日にもキーロフの殺害を試みたことがあった。この日、ニコラーエフはカメンノーフストロフスキー大通り(ロシア語版)にあるキーロフの自宅付近で警備員に取り押さえられ、尋問を受けたが、党員証と武器の使用許可証を提示すると釈放された[2]

1934年12月1日午後4時30分過ぎ、ニコラーエフは、スモーリヌイ修道院(ロシア語版)の3階の廊下、キーロフの執務室の近くで待ち伏せしていた。午後4時37分ごろ、キーロフが姿を現わすと、ニコラーエフは背後から近付き、回転式拳銃の引き金を引いて至近距離からキーロフの頭部に銃弾を撃ち込んだ。この直後、ニコラーエフは銃で自殺しようとするも失敗し[3]、意識を失ってその場に倒れた。ニコラーエフはショック状態のまま現場で拘束され、第二精神病院に搬送された。午後9時頃、ニコラーエフは意識を取り戻した。

キーロフ殺害の知らせを受けて、ヨシフ・スターリン(Иосиф Сталин)は直ちに急行列車に乗り、レニングラードへ向かった。ヴャチェスラーフ・モロトフ(Вячесла?в Мо?лотов)、クリミェント・ヴォロシーロフ(Климе?нт Вороши?лов)、アンドレイ・ジダーノフ(Андрей Жда?нов)、アンドレイ・ヴィシンスキー(Андрей Вышинский)、ゲンリフ・ヤゴーダ(Генрих Ягода)、ニコライ・エジョフ(Никола? Ежо?в)、ヤーコフ・アグラーノフ(Яков Агранов)が付き従った[4]

12月2日の早朝に現地に到着したスターリンはニコラーエフの元へ向かい、ニコラーエフに対して直接尋問した[5][6]

スターリンからの指令を受けて、ニコライ・エジョフが事件の捜査を指揮した[7]内務人民委員部長官のゲンリフ・ヤゴーダとその部下たちは、「リェフ・カーメネフ(Лев Каменев)とグリゴーリイ・ジノーヴィエフ(Григо?рий Зино?вьев)がキーロフ殺害に関わっている」とするスターリンの見解を「穏やかに」妨害しようとした。チェキストたちから不満の声が出たことにより、エジョフは捜査を「正しい方向」に軌道修正しようとした。1937年2月から3月にかけて開催された党大会の場で、エジョフはこの事件について触れ、「スターリンが自分とアレクサンドル・ヴァシーリエヴィチ・コサレフ(ロシア語版)を呼び、『ジノーヴィエフ派の中から犯人を探し出せ』と指示された」と語っている[8]

キーロフ殺害の翌日、ソ連の新聞に「共産党中央委員会からの通知」が掲載され、そこには「キーロフは労働者階級の敵の卑劣な攻撃によって死んだ」と記述された[9]1934年12月4日、ソ連の新聞は、ソ連中央執行委員会幹部会による決定について報じた。「連邦共和国の現行刑事訴訟法の改正について」と題された決議が発表され、「捜査当局は、テロ行為の準備または実行の容疑で告発された者たちの事件の捜査について迅速に進めるべきであり、司法当局は刑の執行を遅らせないようにする」と書かれた。この法令により、裁判所はテロリズムの容疑に対しては10日以内に刑事訴訟を開始するよう義務付けられ、当事者や証人が不在の状態でも審問が実施できるようになった。控訴や請願は許されず、即時に死刑が執行されるようになった[5][9][10][11]

1934年12月28日から12月29日にかけて、ソ連最高裁判所軍事諮問委員会(ロシア語版)の法廷が開かれ、ニコラーエフに加えて13人の人物が被告人として出廷した。彼らはいずれもキーロフ殺害の準備の陰謀に加担した罪で起訴された。キーロフの殺害はのちに「レニングラード本部事件」と呼ばれた[12]。法廷の議長を務めたのはヴァシーリー・ウルリフ(Васи?лий У?льрих)であった。ニコラーエフが自白の内容を認めたのは、他の被告が不在の状況下でウルリフがニコラーエフを尋問したときのことであった。1934年12月29日午前5時45分、ニコラーエフ以下全員に死刑が宣告され、その一時間後に銃殺された。判決を聞いたニコラーエフは「残酷だ!」[13][14]、「嵌めやがったな!」と絶叫した[5][11][12][15]

レオニード・ザコーフスキー(Леонид Заковский)がレニングラード内務人民委員部の長官に任命され、レニングラードに到着すると、「『トロツキー派・ジノーヴィエフ派』に属している」として、身に覚えのない不当な逮捕が始まった。レニングラードで働いていたチェキストたちは、「名前が『ニコラーエフ』という理由だけで、多くのソ連国民が逮捕され、国外追放処分や銃殺刑に処せられた」と語った。これはザコーフスキーの命令であったという[16]
ニコラーエフの親族の運命

ニコラーエフの妻、ミルダ・ドラウレ(ロシア語版)は、1901年8月、ロシア帝国時代のサンクト・ピチェルブルクにて、ラトヴィア人の家庭に生まれた。1919年にソ連共産党(ボリシェヴィキ)に入党し、1925年にレオニード・ニコラーエフと結婚し、1927年に長男・マルクス、1931年に次男・レオニードを産んだ。彼女はスモーリヌイ修道院にて、技術者として働いていた。夫が逮捕されると、彼女は党を除名されたのち、捕らえられ、尋問を受けたのち、1935年3月10日銃殺刑に処せられた[17]。ミルダの妹・オルガとその夫・ローマンも銃殺された[18]

ニコラーエフの母親、二人の姉妹、妹の夫、ニコラーエフの兄の妻とその妹、その妹の夫、ニコラーエフの隣人、彼らはいずれも銃殺されたか、刑務所に送られて死亡した[6]

1990年8月13日のソ連大統領令に基づき、ミルダ・ドラウレは名誉回復がなされた。ソ連の検察当局は、セルゲイ・キーロフの殺害にはミルダは関与していない、と断定した[19]。ニコラーエフの親族たちも名誉回復を受けた[20]が、ニコラーエフ本人は名誉回復されていない[19][20]
キーロフ殺害に関する諸説
キーロフとミルダ・ドラウレ

キーロフが穿いていたズボンの医学的検査を行ったところ、最後に洗濯されてから長時間着用された形跡はなかったが、乾燥した状態の精液の斑点が、ズボンの前面上部の内側表面に確認された[21][22]。キーロフは仕事を通じて、ニコラーエフの妻、ミルダ・ドラウレのことを以前から知っていた。1934年12月1日の午後11時ごろから、レニングラード周辺にて、「キーロフとミルダは親密な関係にあった」との噂が拡がり始めた。この種の「情報」は、党委員会、地区委員会、地域委員会に収集、分析、編集された。こうした噂を拡散した者は党から除名されたうえ、逮捕されるか、銃殺された[21]

ミルダはキーロフが殺された15分後に連行され、尋問を受けた[23]
キーロフの護衛の死

キーロフが殺されたのち、キーロフの護衛を務めていたミハイル・ボリソフ(МихаипBБорисов)[6]が尋問を受けることになり、スモーリヌイに車で移送される途中、乗っていた車が事故を起こし、ボリソフは死亡した[24]。のちの調査で、この車には欠陥があった事実が判明した[25]

ヴィークトル・バラン(Виктор Балан)は、「ボリソフは、疎放に仕組まれた交通事故の形で殺されたのだ」と書いた[3]
私怨

尋問を受けたニコラーエフは、「この暗殺組織に一緒に加わった者は誰なのか」と尋ねられると、「これは全て自分一人で計画し、準備したものだ」と答えた[2]。ニコラーエフの自宅では家宅捜索が行われ、「キーロフは、私と妻との間に敵意を植え付けた」と書かれた手紙が見付かった[9]

レオニード・ヴァシーリエヴィチ・ニコラーエフ(Леони?д Васи?льевич Никола?ев)は、1904年5月10日、サンクト・ピチェルブルクにて生まれた。身体が弱く、11歳になるまで歩けなかった。くる病を患い、2年間、脚にギプスを嵌めて暮らしていた。成人後の彼は、身長150cm、腕は膝まで伸びており、病弱の身であった[26][2]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:91 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef