セルゲイ・ウィッテ
[Wikipedia|▼Menu]

ロシア帝国政治家セルゲイ・ウィッテСерге?й Ю?льевич Ви?тте
セルゲイ・ウィッテ(1905年)
生年月日1849年6月29日
出生地 ロシア帝国 チフリス
(現、 ジョージア トビリシ
没年月日 (1915-03-13) 1915年3月13日(65歳没)
死没地 ロシア帝国 ペトログラード(現、サンクトペテルブルク)
出身校 ロシア帝国 新ロシア大学(現、オデッサ大学
称号伯爵
サイン
ロシア帝国 初代首相
在任期間1905年11月6日 - 1906年6月5日
皇帝ニコライ2世
ロシア帝国 第14代運輸大臣(英語版)
在任期間1892年2月 - 1892年8月
皇帝アレクサンドル3世
ロシア帝国 第13代大蔵大臣(英語版)
在任期間1892年8月30日 - 1903年8月16日
皇帝アレクサンドル3世(-1894.11)
ニコライ2世(1894.11-)
ロシア帝国 大臣委員会議長
在任期間1903年8月 - 1905年10月
皇帝ニコライ2世
テンプレートを表示

セルゲイ・ユリエヴィチ・ウィッテ(ロシア語: Серге?й Ю?льевич Ви?тте, ラテン文字表記例:Sergei Yul'jevich Witte, 1849年6月29日ユリウス暦6月17日) - 1915年3月13日(ユリウス暦2月28日))は、帝政ロシア末期の政治家。セルギウス・ウィッテの名でも知られ、姓はヴィッテとも表記される。

鉄道会社勤務から政界に登用された異色の経歴をもち、ロシア帝国運輸通信大臣(1892年)、大蔵大臣(1892年 - 1903年)、大臣委員会議長(1903年 - 1905年)を歴任し、1905年10月20日には初のロシア帝国首相(閣僚会議議長)となってロシア初の憲法となる1906年ロシア帝国国家基本法の設計者のひとりとなった[1]。蔵相としては金本位制の採用やシベリア鉄道をはじめとする鉄道建設などによりロシアの工業化に貢献した[1]日本清国との外交交渉でも活躍し、日露戦争の講和交渉にはロシア側全権として当たり、日本側の外務大臣小村寿太郎と折衝を重ね、ポーツマス条約成立により伯爵の爵位を得た[2]。彼の著した回想録『ウィッテ伯回想記』はロシア激動の時代の史料として重要である。

イギリスの歴史家、オーランドー・ファイジズは彼について、「1890年代の偉大な財政改革大臣」であり[3]、「ニコライ2世の諸大臣中もっとも賢明な一人」であって[4]、また、1905年におけるロシアの新議会制度の生みの親であると叙述している[5]
生涯
出自と生い立ち

1849年6月29日、ロシア帝国の領土でカフカス総督府(英語版)の置かれたグルジア(現、ジョージア)のチフリス(現、トビリシ)に生まれた。

ウィッテは、自分の先祖について、「スウェーデン人がまだ支配者であったときのバルト諸県に定住したオランダ人家族から出た」とだけ述べており[6]バルト帝国時代(スウェーデン統治時代)にオランダからバルト海沿岸に移り住んできた移民の子孫である[7]バルト・ドイツ人は、ピョートル1世以来優れた人物を輩出してきたが、彼もまた間接的にはそれに連なる人物であった[6]。セルゲイ・ウィッテの父ジュリアス・クリストフ・ハインリヒ・ゲオルク・ウィッテ(1814-1868)はルター派のバルト・ドイツ人で、ドルパート大学とドイツの大学に学んで技術官としてロシア政府の勤務に就いた人物である[6]。彼は、上司であるサラトフ県知事の娘でロシア貴族出身のエカテリーナ・ファデーエワ(1821-1897、セルゲイの母)と結婚する際、ロシア正教に改宗した[7]。ジュリアスは、ロシア有数の大都会であったプスコフで騎士団員となったが、官吏としてサラトフ、つづいてチフリスへと移り住み、セルゲイは母エカテリーナの両親のもとで育った[8]

母方の祖父は、サラトフ県知事でカフカス枢密院議員のアンドレイ・ミハイロヴィチ・ファデーエフ(1789-1867)であり、祖母は名門貴族ドルゴルーコフ家出身で博物学者でもあったエレナ・パヴロヴナ・ドルゴルーコヴァ(英語版)公女(1788-1860)であった。

セルゲイ(1849-1915)は5人兄弟で、ボリス(1845-1902)、アレクサンドル(1846-1884)という2人の兄とオルガ(生没年不詳)、ソフィア(1849-1917)の2人の姉妹がいた[9][10]。 なお、オカルティストとして知られるエレナ・ペトローヴナ・ブラヴァーツカヤ(1831-1891、ブラヴァツキー夫人)はアンドレイ・ファデーエフとヘレナ・ドルゴルーコヴァ公女を共通の祖父母とする従姉で、セルゲイ・ウィッテの大学時代に交流があった。

セルゲイ・ウィッテの政敵は彼を「ドイツ人」と指弾することがあったが、それはしばしば彼のこういった出自に対する誤った理解にもとづいていた[6]
大学から鉄道会社へセルゲイ・ウィッテ(1880年代)

セルゲイ・ウィッテは16歳までチフリスで育った。彼はチフリスのギムナジウムで学んだが、学問よりも音楽フェンシング乗馬に興味を示す生徒であった。彼はモルドバキシネフでギムナジウムの上級を修了した[11]1865年、兄のボリスはウクライナオデッサにある帝国ノヴォロシア大学(現、オデッサ大学)の法学科に進んだ。セルゲイは翌1866年に同大学の物理・数学科に進み、1870年、トップの成績で卒業した[7][12][13]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:276 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef