セミー・シュルト
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セミー・シュルト

本名セミー・シュルト
(Semmy Schilt)
生年月日 (1973-10-27) 1973年10月27日(50歳)
出身地 オランダ
南ホラント州ロッテルダム
通称絶対王者
難攻不落の最凶王者
最凶巨神兵
巨大格闘ロボ
ハイタワー
国籍 オランダ
身長212 cm (6 ft 11 in)
体重130 kg (287 lb)
階級スーパーヘビー級 (K-1)
ヘビー級 (MMA)
リーチ224 cm (88 in)
拠点 オランダ、ザイドラーレン
チーム正道会館/ゴールデン・グローリー
トレーナーDave Jonkers
ランク極真空手
芦原会館 (六段)
極真武道会 (九段)
大道塾空道 (黒帯)
現役期間1996 - 2008 (MMA)
2002 - 2013 (キックボクシング)

総合格闘技記録
試合数41
勝利26
ノックアウト14
タップアウト10
判定2
敗戦14
ノックアウト2
タップアウト6
判定6
引き分け1

キックボクシング記録
試合数50
勝利43
ノックアウト20
敗戦6
ノックアウト2
引き分け1
その他
ウェブサイト ⇒www.semschilt.com
総合格闘技記録 - SHERDOG
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セミー・シュルト(Sem Schilt、Semmy Schilt、1973年10月27日 - )は、オランダ男性空手家キックボクサー総合格闘家南ホラント州ロッテルダム出身。オランダ語ではセム・スヒルト、英語ではセミー・シュルトと発音される。日本ではオランダ語読みと英語読みを混同した「セーム・シュルト」と呼ばれていたが、シュルト本人は2012年に日本語表記を原音に近い「セミー・シュルト」とすることを希望している[1]

K-1 WORLD GP 2005、2006、2007、2009王者。初代K-1スーパーヘビー級王者。初代GLORY世界ヘビー級王者。GLORY GRAND SLAM ヘビー級世界トーナメント2012王者。北斗旗無差別級優勝2回。第9代無差別級キング・オブ・パンクラシスト
来歴
UFC参戦以前

両親共に極真空手をやっており、8歳の時に自身も極真空手を始める。後に芦原会館に移籍。20歳の頃には全英極真空手オープントーナメント、モスクワフルコンタクト空手オープントーナメント、オランダUSA大山空手オープントーナメントらで優勝[2]

ジョン・ブルミン大道塾創設者の東孝と会談し、大道塾の大会に選手を派遣することを決め、1994年にシュルトを派遣させた。

着衣総合格闘技団体大道塾主催の北斗旗オープントーナメントには1994年から4年連続出場。1994年11月5日には品野圭司に一本負けで1回戦敗退。翌年の11月11日には準決勝まで進出するも、中山正和に敗退。3位となった。

1996年は組み技のトレーニングに集中的に取り組み、当時大道塾と関係の深かったパンクラスにも出場。5月16日に山田学戦でパンクラスデビューを果たした。そして11月16日には北斗旗オープントーナメントで外国人初の優勝者となった。

1997年パンクラスで5試合をこなし、11月16日の北斗旗オープントーナメントでは他の選手を全く寄せ付けず優勝し2連覇を達成した。

1998年にはパンクラスで1月16日に鈴木みのる、9月14日に船木誠勝から勝利した。

1999年4月18日、無差別級キング・オブ・パンクラス決定戦で近藤有己と対戦し、判定負けで王座獲得に失敗した。

1999年11月28日、無差別級キング・オブ・パンクラスタイトルマッチで王者の近藤有己に挑戦し、チョークスリーパーで一本勝ちを収め王座を獲得した。その後、2度の防衛に成功した。同王座は2003年の階級再編に伴い返上した[3]
2001年

5月4日、UFC初参戦となったUFC 31ピート・ウィリアムスと対戦し、2ラウンドTKO勝ち。

6月29日、UFC 32ジョシュ・バーネットと対戦し、1ラウンド腕ひしぎ十字固めで一本負け。

9月24日、PRIDE初参戦となったPRIDE.16小路晃と対戦し、1ラウンドKO勝ち。
2002年

4月21日、K-1初参戦となったK-1 BURNING 2002で武蔵と対戦し、僅差の判定勝ち。

6月23日、PRIDE.21エメリヤーエンコ・ヒョードルと対戦し、判定負け。

8月28日、Dynamite!ではアーネスト・ホーストとK-1ルールで対戦し、引き分け。

10月5日、K-1 WORLD GP 2002 開幕戦のGP1回戦でマイケル・マクドナルドと対戦し、判定勝ち。K-1 WORLD GP 2002 決勝戦への切符を手にした。

11月24日、PRIDE.23で当時のPRIDEヘビー級王者であったアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラと対戦し、三角絞めで1ラウンド一本負け。この三角絞めを極められた際に左肩腱板を損傷し12月7日のK-1 WORLD GP 2002 決勝戦で決定していたボブ・サップ戦を欠場した[4]
2003年

7月13日、K-1 WORLD GP 2003 in 福岡でレミー・ボンヤスキーと対戦し、判定勝ち。

12月31日、INOKI BOM-BA-YE 2003では無差別級キング・オブ・パンクラスタイトルマッチで王者ジョシュ・バーネットに挑戦し、腕ひしぎ十字固めで3ラウンド一本負け。
2004年

4月25日、PRIDE GRANDPRIX 2004 開幕戦のヘビー級グランプリ1回戦ガン・マッギーと対戦。1ラウンド一本勝ち。

5月20日、IT'S SHOWTIMEにてアレクセイ・イグナショフと対戦し、終始パンチの連打で圧倒されて1ラウンドKO負け。これが打撃系格闘技における初敗北となった。

6月20日、PRIDE GRANDPRIX 2004 2nd ROUNDのヘビー級グランプリ2回戦でセルゲイ・ハリトーノフと対戦し、マウントパンチ鉄槌打ちの連打を受け血まみれになり1ラウンドTKO負け。なお、この試合を最後にPRIDEから撤退した。

11月6日、TITANSにてヤン・"ザ・ジャイアント"・ノルキヤと対戦し、先制のダウンを奪われるが、逆転して2ラウンドKO勝ち。
2005年

2005年、正道会館に移籍しK-1に本格参戦する。5月27日、K-1 WORLD GP 2005 IN PARISのEUROPE GPで3試合をいずれもKOもしくはTKO勝利で優勝し、グランプリ出場を決める。

9月23日、K-1 WORLD GP 2005 IN OSAKA 開幕戦のGP1回戦でグラウベ・フェイトーザに判定勝ち。

11月19日、K-1 WORLD GP 2005 IN TOKYO 決勝戦では身体をそれまでになく絞って臨み、準々決勝のレイ・セフォー戦では3ラウンドにダウンを奪っての判定勝ちを収め、準決勝のレミー・ボンヤスキー戦、決勝のグラウベ・フェイトーザ戦ではそれぞれ1ラウンドKO勝利し優勝。総合格闘家としてはK-1史上初、空手家としてはアンディ・フグに次ぐK-1史上2人目の王者となった。

12月31日、K-1 PREMIUM 2005 Dynamite!!ではアーネスト・ホーストと再戦。2ラウンドTKO勝ち。
2006年

3月5日、K-1 WORLD GP 2006 IN AUCKLANDでピーター・アーツと対戦。


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