セミノール戦争
[Wikipedia|▼Menu]

セミノール戦争(セミノールせんそう、: Seminole Wars)、フロリダ戦争(フロリダせんそう)としても知られる)は、セミノールと総称される様々なインディアンアメリカ合衆国とのフロリダにおける三次の戦争(紛争)である。第一次セミノール戦争は1817年-1818年、第二次セミノール戦争は1835年-1842年、第三次セミノール戦争は1855年-1858年であった。しばしば単にセミノール戦争(the Seminole War)と呼ばれる第二次セミノール戦争は、アメリカ独立戦争からベトナム戦争の間でアメリカ合衆国が関わった戦争では最も長く続いた戦争だった。インディアンたちはこれを、「インディアンのベトナム戦争」と呼んでいる。
背景
フロリダ植民地詳細は「エバーグレーズ地域のインディアン」を参照

インディアンにはヨーロッパ人がもたらした疫病に対する抵抗力がほとんどなく、またスペイン軍がフロリダ北部でインディアンの反乱を弾圧したことで、この地域にヨーロッパ人が渡来するとフロリダ・インディアンの人口は減少した。またカロライナの州兵とそのインディアン同盟がフロリダ半島全域で幾度も攻撃を仕掛け、18世紀初頭までには残るインディアンのほとんどを殺害したか、捕虜にした。1763年にスペインがフロリダをイギリスに割譲するさい、スペイン軍は、わずかに生き残ったフロリダ・インディアンをキューバに送った[1]

アメリカ南東部の様々な部族は、新天地フロリダへの移住を開始した。1715年にはヤマシー族(en:Yamasee)がスペインの同盟者として、イギリス植民地軍との紛争後にフロリダへ移動した。クリーク族は、まずロウワー・クリーク族がフロリダに移り始め、やがてアッパー・クリーク族がこれに続いた。ヒチティ(en:Hitchiti)語を話すグループの支族であるミカズキ族は、現在のタラハシー近郊のミカズキ湖(en:Lake Miccosukee)周辺に入植した。この一族は、今日までミカズキ族(en:Miccosukee)として独自のアイデンティティを維持している。カウキーパー(en:Cowkeeper)率いるヒチティ語を話す他の集団は、スペイン人が17世紀に牧場を経営した土地、現在のアラチュア郡に入植した。最も有名な牧場のひとつがラチュアと呼ばれていたので、この地域は「アラチュア大草原(en:Paynes Prairie)」として知られるようになった。セントオーガスティンのスペイン人は、アラチュアのクリーク族を「野蛮」や「奴隷」といった意味の「シマロン」と呼びはじめたが、これがセミノールの語源である可能性は高い[2][3]。このシマロンという名は、やがてフロリダの他の部族をも指すようになったが、各部族は依然として個々のアイデンティティを維持していた。セミノール戦争時点でフロリダにいた他のグループには、カルーサ(en:Calusa)地方の出身と信じられていたため「スパニッシュ・インディアン」と呼ばれていたユチ(en:Yuchi)や、フロリダ海岸部のスペイン人・キューバ人の漁場で暮らしていた「牧場インディアン」などがある[4]

また、18世紀のフロリダへの移住者には逃亡奴隷もいた。スペイン領フロリダに着くことができた奴隷は本質的には自由であった。スペイン当局は逃亡奴隷を歓迎し、セントオーガスティンに隣接したフォート・モーセ(en:Fort Mose Historic State Park)の住民として居住することを許可し、都市防衛のため彼らを民兵として起用した。他の逃亡奴隷は、時に奴隷として、時に部族の自由なメンバーとして、様々な「セミノール」の一団に加わった。いかなる場合でも、フロリダ・インディアンの下の奴隷制の重荷は、英領の植民地のそれよりかなり軽かった。ジョシュア・リード・ギディングス(en:Joshua Reed Giddings)の1858年の記述によれば、「彼らは奴隷を自由と奴隷の中間で処遇し、奴隷は通常自分の家族とともに暮らして自分の時間をもち、少量のとうもろこしや野菜を主人への支払に充てる。このクラスの奴隷は白人にとりもっとも嫌なものである」という。スペインが1763年にフロリダを去ったとき、フォート・モーセの元奴隷の大部分はキューバに行ったが、様々なインディアン部族と共に留まる者もあり、南北カロライナ州やジョージア州の奴隷たちはさらにフロリダへと逃亡を続けた。フロリダに留まったか、または後にセミノールに加わった黒人たちは、部族社会に融合して言語を習得し、部族の衣装をまとい、混血婚をした。これらのブラック・セミノールの何名かは部族の重要なリーダーとなった[5]
初期の紛争

アメリカ独立戦争の間、フロリダを支配したイギリスは、ジョージア州の開拓地の襲撃のためにセミノールを募集した。戦争の混乱はまた、フロリダに逃亡する奴隷の数を増加させた。これらの出来事は、セミノールというアメリカ合衆国にとっての新しい敵を作った。1783年、アメリカ独立戦争を終わらせた条約の一部として、フロリダはスペインに返還された。スペインのフロリダの掌握はそれほど強くはなく、セントオーガスティン、セントマークス、ペンサコーラに小さな守備隊がいるのみだった。このため、フロリダとアメリカ合衆国との境界は制御されなかった。アメリカの不法入居者たちがスペイン領フロリダに移っていた時、ミカズキと他のセミノールのグループは、まだ境界の合衆国側の町を占領していた[6]

1763年、フロリダはイギリスによって東フロリダ西フロリダに分割され、そして1783年にスペインがフロリダを取り戻したとき、スペインは分割をそのままにした。西フロリダはアパラチコーラ川(en:Apalachicola River)からミシシッピー川に拡大した。それらのルイジアナの所有地と共に、スペインの支配力はアパラチア山脈より西のアメリカ西部を流れるすべての川の下流域に及んだ。マニフェスト・デスティニーとして知られる拡張の奨励に加えて、西部の川での自由な交易を前提とすること、そしてフロリダをヨーロッパ諸国によるアメリカ合衆国の侵入のための基地として使用されることを防ぐことのために、アメリカ合衆国はフロリダの取得を望んだ[7]

1803年のルイジアナ買収によってミシシッピー川の河口はアメリカの手に渡ったが、アラバマ、ミシシッピー、テネシー、およびジョージアの大部分はメキシコ湾に達するまでに東フロリダまたは西フロリダを通り抜けた川によって荒らされていた。米国は、ルイジアナ買収による土地は、パーディド川(en:Perdido River)西の西フロリダを含んでいると主張した一方で、スペインは、西フロリダはミシシッピー川まで伸びていると主張した。1810年、バトンルージュの居住者たちは新政府を樹立して地元のスペインの砦を占拠し、アメリカ合衆国による保護を要求した。ジェームズ・マディソン大統領は、オーリンズ準州知事のウィリアム・C・C・クレイボーン(en:William C. C. Claiborne)に、ミシシッピー川からはるか東のパーディド川までの西フロリダを差押えることを認可したが、クレイボーンはパール川(en:Pearl River (Mississippi-Louisiana))(ルイジアナの現在の東境界)以西のエリアを占領するにとどまった[8]。マディソンはその時、ジョージ・マシューズ(en:George Mathews (Georgia))をフロリダに対処しに行かせた。西フロリダの残りを米国に引き渡すという申し出が西フロリダの知事によって無効にされたとき、マシューズはバトンルージュに起こったことと同様の反逆をそそのかそうとして、東フロリダを歩き回った。しかし東フロリダの居住者たちは現状に満足であったため、代わりに志願兵部隊(無料の土地を約束された)がジョージアで挙兵された。1812年3月、数隻のアメリカ合衆国海軍砲艦の援助を受けたこの「愛国者」の軍隊は、フェルナンディナ(en:Fernandina Beach, Florida)を占領した。フェルナンディナの占領は、元々ジェームズ・マディソン大統領によって認可されたのだが、彼は後にそれを否認した[8]。愛国者軍はセントオーガスティンのカスティリョ・デ・サンマルコス(en:Castillo de San Marcos)を占領することができなかったが、しかし、イギリスとの戦争の提案は、東フロリダへのアメリカの侵入を終えることにつながった[9]。1813年に、アメリカ軍はスペインから、アラバマ州モービルの奪還に成功した[10]

愛国者軍がフロリダから撤退する前に、スペインと同盟を組んでいたセミノールは彼らを攻撃し始めた。これらの攻撃は、セミノールが敵であるとするアメリカの意見を補強した。また、戦いにおけるブラック・セミノールの存在は、愛国者軍の中のジョージア人たちの間に、奴隷の反逆という昔の恐怖を思い起こさせた。1812年9月、ジョージア志願兵の中隊は、アラチュア大草原に住んでいるセミノールを攻撃したが、あまりダメージを与えられなかった。1813年初めには、より大きい軍隊がアラチュア大草原のセミノールの村から彼らを追い出し、数千頭の牛を殺したり追い払ったりした[11]
第1次セミノール戦争アンドリュー・ジャクソンは第1次セミノール戦争中にフロリダに侵略した。

第1次セミノール戦争の始まりと終わりの日付はしっかりと確立されていない。米国陸軍歩兵隊では、1814年から1819年まで続いたとしている[12]。アメリカ合衆国海軍の海軍歴史センターは、1816年から1818年としている[8]。別の陸軍サイトは、1817年から1818年としている[13]。最後に、第5野戦特科第1大隊は、戦争は唯一1818年に起こったと記述している[14]
クリーク戦争とニグロ砦

フロリダのセミノールに影響する次の大きい出来事は、1813年から1814年のクリーク戦争であった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:105 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef