セブ島
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セブ島
セブ島
所在地フィリピン
所在海域太平洋
所属諸島ビサヤ諸島
座標北緯10度20分 東経123度45分 / 北緯10.333度 東経123.750度 / 10.333; 123.750座標: 北緯10度20分 東経123度45分 / 北緯10.333度 東経123.750度 / 10.333; 123.750
面積4,468 km²
最高標高1000 m
最大都市セブ市
セブ島 (フィリピン)フィリピンの地図を表示セブ島 (ビサヤ諸島)ビサヤ諸島の地図を表示
OpenStreetMap
プロジェクト 地形
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セブ島(英語: Cebu Island)は、フィリピン中部のビサヤ諸島にあるで、南北に225kmにわたって伸びる細長くて大きなである。面積は4422km2。周囲はマクタン島バンタヤン島、マラパスカ島、オランゴ島など小さな島々に囲まれている。

東にカモテス海カモテス諸島をはさんでレイテ島ボホール海峡を挟んでボホール島、西にタノン海峡を挟んでネグロス島、南にシキホル島、北にビサヤン海を臨む。

全島とその属島がセブ州で、島の東海岸中央部にある人口72万の州都セブマンダウエ市をはじめ6つの都市があり、マニラ首都圏(メトロ・マニラ)に次ぐ大都市圏メトロ・セブを形成している。州全体の人口は3,356,137人(2000年調査)で、うち300万人がセブ島に住んでいる。ほとんどの人はセブアノ語を話し、これはビサヤ諸島の共通言語になっている[1]

マクタン島は風光明媚で風通しがよく、いわゆるセブ・リゾートはここマクタン島を指す場合が多く、外国からの移住者も多い。1521年マゼラン上陸でスペイン統治の開始とともに、フィリピンを世界史の表舞台へと導くきっかけとなった。統治者らは宗教食文化をはじめとする生活スタイルや建築様式に至るまで大きな影響を及ぼし、フィリピン全土へ浸透させていった。セブ市は最初にスペインによる植民地化がされた植民都市でありその名残である建造物史跡が随所に残る。また、昔ながらの大きな市場カルボンマーケットがあるほか、観光客相手の巨大ショッピング・モールリゾートホテルがセブ市やマクタン島に多数ある[1]目次

1 地理

2 歴史

2.1 マゼランの航海

2.2 スペインの征服と植民地時代

2.2.1 15?19世紀のフィリピン貿易


2.3 第二次世界大戦

2.4 第二次世界大戦後


3 交通

4 住民

4.1 民族

4.2 言語

4.3 宗教


5 治安

6 史跡・観光

7 脚註

8 関連項目

9 外部リンク

地理 セブ島の砂浜(西海岸)

セブ本島は長細い島で、両脇を海峡に囲まれている。島の中部の東海岸に接する小さな島がリゾート地・マクタン島であり、国際空港や経済特区、ホテル、ショッピングセンターがある一方美しい浜辺やダイビングスポットもある。島の北側にバンタヤン島、ダアンバンタヤン島がある。その他無数の小さな美しい島に囲まれ、そのうちオランゴ環礁などの無人島は冒険を求める観光客の目的地になっている。

セブ島は大理石の高原地帯と海岸部の平野に分かれ、典型的な熱帯の島の風景をなしている。また、うねる丘の群れと険しい山脈が島を南北に縦断している。山々は高さ1,000mに達するが、これらを覆う森は不十分である。大きな平地は島の北部やセブ市周辺に見られる。

より観光客や工業投資を誘致するため、州政府はインフラ整備に余念がない。特にマクタン島はセブ島とマクタン・マンダウエ橋とマルセロ・フェルナン橋の2つの橋でつながっているが、これらの使い勝手の悪さから、更に3本目の橋を掛けるかまたは海底トンネルを作るかで議論が起こっている。ただしどちらも財政的な裏づけは不十分である。
歴史「セブ#歴史」および「フィリピンの歴史」も参照

スペイン人到来以前より、セブ(当時はズブ Zubu、あるいはビサヤ語でスグボ Sugbo と呼ばれた)はシャムアラビアマレーなどとの交易の拠点として栄えていた。
マゼランの航海 スペイン人が描いた原住民「フェルディナンド・マゼラン」も参照

1521年3月16日、ポルトガル人の航海士フェルディナンド・マゼランはセブ島に到着した。彼はスペイン王の命を受け探検の途中で、欧州でも有名なモルッカ諸島への西回り航路を開拓し島々の実態を調べ、東方にスペインの領土を広げることが可能か調査することが旅の目的だった。マゼランのマライ人奴隷エンリケは上陸後、言葉がかろうじて通じると言った。マゼランはかつて船乗りとして訪れたマライ語圏に戻ってきたこと、世界を一周したことを悟った。

マゼランはセブの領主、ラジャ・フマボンを説得し、スペイン王カール5世への忠誠を宣誓させた。スペイン人のドミニコ会修道士が同乗していたことで、この航海はフィリピンへのキリスト教宣教の第一波となった。4月14日、マゼランは大きな木の十字架をセブの海岸に立て、400人ほどのセブ人が洗礼を受けた。セブの王と王妃も洗礼を受け、スペイン王夫妻に敬意を表してそれぞれカルロスとフアナという洗礼名を受けた。後にセブの守護聖人になる幼きイエスの像、サント・ニーニョ像もスペイン側とセブ側の平和の証として王妃に手渡された。

セブでの宣教と同盟の成功に勇気づけられ、マゼランは隣のマクタン島との海峡を渡った。マクタンにはムスリムの領主(ダトゥ)ラプ=ラプがいた。4月27日、両者の間に戦闘が起こり、マゼランは戦死し部下達は島の住民に追い返された。歴史家年代記作家のアントニオ・ピガフェッタは、部下達がスパイス宝石を島民に差し出そうとしてもマゼランの遺骸は取り戻すことができなかったと書く。後にラプ=ラプはフィリピン人の侵略者に対する抵抗の象徴となり、現在はマクタン島にマゼランの布教をたたえた記念碑とラプ=ラプの戦いをたたえた記念碑が隣同士に建っている。

マゼランの部下の一人、フアン・セバスティアン・エルカーノは指揮を引き継ぎ、破損の激しいコンセプシオン号を焼き捨て、2隻になった残存艦隊を引き連れてスペインに戻った。彼らはセブに来た時の西回り航路とは反対方向の東回り航路をとったため、彼らは初めて世界を一周した者たちとなった。
スペインの征服と植民地時代 19世紀セブ市

マゼラン艦隊の生存者は、スペイン帰国後、東方にある楽園の価値を報告した。ほどなく、後に続く探検者が航海に送りだされたが、全て失敗に終わった。


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