セブンパインズの戦い
Battle of Seven Pines
南北戦争中
セブンパインズの戦い by Currier and Ives (1862).
時1862年5月31日-6月1日
場所バージニア州ヘンリコ郡
結果決着付かず
衝突した勢力
北軍 南軍
指揮官
ジョージ・マクレランジョセフ・ジョンストン
グスタヴス・ウッドソン・スミス
戦力
約40,000約40,000
被害者数
5,031 (戦死 790
負傷 3,594
不明・捕虜 647)[1]6,134 (戦死 980
負傷 4,749
不明・捕虜 405)[1]
セブンパインズの戦い(セブンパインズのたたかい、英:Battle of Seven Pines、またはフェアオークスの戦い、英:Battle of Fair Oaks、またはフェアオークス駅の戦い、英:Fair Oaks Station)は、南北戦争初期の1862年5月31日と6月1日、バージニア州ヘンリコ郡で、半島方面作戦の一部として行われた戦闘である。北軍ジョージ・マクレラン少将がバージニア半島を登って攻勢を掛けた頂点をなすものであり、そのポトマック軍はリッチモンド郊外まで達した。
5月31日、南軍のジョセフ・ジョンストン将軍はチカホミニー川の南で孤立しているように見えた北軍2個軍団を圧倒しようとした。南軍の攻撃は協調が取れていなかったものの、北軍第4軍団を後退させ、大きな損失を出させた。両軍は補強を行い次々と部隊を戦闘に投入した。北軍は第3軍団とエドウィン・V・サムナー准将の第2軍団下のジョン・セジウィック少将師団(雨で膨れ上がった川をグレープバイン橋で渉った)に支援され、その陣地を安定させることができた。ジョンストン将軍はこの戦闘中に重傷を負い、南軍の指揮は一時的にグスタヴス・ウッドソン・スミスが執った。6月1日、南軍はさらに援軍を得て、北軍に対する攻撃を再開したが、あまり進展は無かった。両軍ともに勝利を宣言した[2]。
この戦闘は戦術的に引き分けだったが、その時までの東部戦線では最大の戦い(西部戦線のシャイローの戦いが損失の多さで最大であり、それに次ぐものだった)であり、北軍の攻勢が終わり、これに続く6月後半には七日間の戦いと北軍の撤退に繋がった。目次 ジョンストンはその60,000名の軍隊をバージニア半島から後退させ、マクレラン軍はジョンストン軍を追って進軍し、アメリカ連合国首都のリッチモンドに近付いた。ジョンストンの防御線は、最近ドルーリーズブラフの戦い(5月15日)で北軍の海軍との戦闘を交えた場所でもあるジェームズ川のドルーリーズ・ブラフに始まり、反時計方向に展開して中央と左翼は春になるとリッチモンド東の広い平原を湿地に変える天然の要害チカホミニー川の背後に陣取った。ジョンストン軍はチカホミニー川に架かる橋をほとんど燃やし、リッチモンド市の北と東に強固な防御陣地を置いた。マクレランはその105,000名の軍隊を2つの理由で市の北東部に集中するように置いた。1つ目の理由は、パマンキー川がチカホミニー川に平行して流れており、マクレラン軍がジョンストン軍の左側面に達した際に通信線を確保できることだった。2つ目の理由は、マクレランがアービン・マクドウェル少将の第1軍団の到着を期待していたことだった。第1軍団はマクレラン軍の支援のためにフレデリックスバーグから南進してくることになっており、その進入路を守っておく必要があった[3]。 半島方面作戦のセブンパインズの戦いまでの概観図. 南軍 北軍 北軍ポトマック軍は緩りパマンキー川を遡り、エルサムズ・ランディング、カンバーランド・ランディングおよびホワイトハウス・ランディングに補給基地を造った。ホワイトハウスはロバート・E・リー将軍の息子W・H・F・"ルーニー"・リーのプランテーションであり、マクレランの作戦基地になった。マクレランはリッチモンド・アンド・ヨーク川鉄道を使ってその重い攻城砲をリッチモンド郊外まで運ぶことができた。南軍の方が勢力がかなり勝っているというふうに信じ込まされた間違った情報に反応して緩りかつ慎重にことを運んだ。5月の終りまでにマクレラン軍はチカホミニー川を渡す橋を架け、軍の3分の1は川の南岸に、残り3分の2は北岸に跨る形でリッチモンドに向かい合った。[4] 北軍105,000名はチカホミニー川に跨ってリッチモンド郊外に近い北東にいた。川の北には3個軍団がおり、北軍の鉄道による補給線を守っていた。フィッツ・ジョン・ポーター准将の第5軍団、ウィリアム・B・フランクリン准将の第6軍団、およびエドウィン・V・サムナー准将の第2軍団だった。川の南には、エラスムス・D・キーズ准将の第4軍団が突出し、南軍の前線に近い位置に陣取った。またサミュエル・P・ハインツェルマン准将の第3軍団も南岸にいた。5月31日の戦闘開始時点で、マクレランは慢性のマラリアによる発熱で病床にあった[5]。 ジョンストンの北バージニア軍60,000名はリッチモンドの防御線を守っていた。その軍隊はジェイムズ・ロングストリート少将の右翼(ロングストリート師団を指揮するリチャード・H・アンダーソン准将、D・H・ヒル少将およびベンジャミン・フーガー准将の3個師団)とグスタヴス・ウッドソン・スミス少将の左翼(スミス師団を指揮するウィリアム・H・C・ホワイティング准将とA・P・ヒル少将の2個師団)、およびジョン・B・マグルーダー少将の予備隊(ラファイエット・マクローズ准将とデイビッド・R・ジョーンズ准将の2個師団)で構成された[6]。 バージニア半島から後退しリッチモンド郊外まで戻ってきたジョンストンは、大軍による包囲戦に耐えられることが分かり、マクレラン軍を攻撃することにした。当初の作戦は、北軍マクドウェル軍団がフレデリックスバーグから南進して到着する前に、チカホミニー川北岸の北軍の右側面を攻撃することだった。しかし、リッチモンドの北東で行われたハノーバーコートハウスの戦いと同じ日の5月27日、マクドウェルの軍団がシェナンドー渓谷方面に割かれてポトマック軍を支援できないことを知った。ジョンストンは、その天然の防御戦であるチカホミニー川を越えて攻撃することを止め、北軍が川に跨っている状態を利用し、川の北にいる3個軍団からは孤立した形にある南岸の2個軍団を攻撃する作戦にした。 うまく行けば、ジョンストンはその軍隊の3分の2(29ある歩兵旅団のうちの22、約51,000名)を北軍の第3および第4軍団33,000名に対抗させることになる。南軍の攻撃作戦は複雑であり、A・P・ヒルとマグルーダーの師団には川の北岸にいる北軍に軽く当たって引き付けておき、一方ロングストリートが主力軍を率いて南岸を攻撃し、キーズ軍団を3方から攻撃するものだった。
1 背景
2 対戦した戦力
3 ジョンストンの作戦
4 戦闘
5 戦闘の後
6 大衆文化の中で
7 脚注
8 関連項目
9 参考文献
10 外部リンク
背景
対戦した戦力
ジョンストンの作戦
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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