セビージャFC
[Wikipedia|▼Menu]

セビージャFC
原語表記Sevilla Futbol Club, S. A. D
愛称Sevillistas (セビジスタス),
Los Rojiblancos (赤と白),
Los nervionenses,
Los palanganas (ほら吹き)
クラブカラー   

   
創設年1890年
所属リーグラ・リーガ
所属ディビジョン1部(2022?23
ホームタウンセビリア
ホームスタジアム
エスタディオ・ラモン・サンチェス・ピスフアン
収容人数45,500
代表者 ホセ・カストロ・カルモナ
監督 ディエゴ・アロンソ
公式サイト ⇒公式サイト

ホームカラーアウェイカラーサードカラー

テンプレート(ノート)サッカークラブPJ
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}この記事の項目名には以下のような表記揺れがあります。

セビージャFC

セビリアFC

セビージャFC(Sevilla Futbol Club、スペイン語発音: [se?βi?a ?fudβol ?kluβ])は、スペインセビリアに本拠地を置くプロサッカークラブである。スペインサッカーのトップリーグのラ・リーガに所属している。UEFAヨーロッパリーグを7回制しており、最多の優勝回数となっている。その他にラ・リーガを1回、コパ・デル・レイを5回、スーペルコパ・デ・エスパーニャを1回、UEFAスーパーカップを1回制覇している。同じセビリアを本拠地とし、労働者階級に強い支持基盤を持つレアル・ベティスとの対戦はセビリア・ダービーと呼ばれ、スペインで最も熱いダービーと言われている[1]
歴史
20世紀前半

1890年、セビージャ市の統治者はセビージャFCの設立を発表し、初代会長にはD・ホセ・ルイス・ガジェゴスが就任した。1908年にはレクレアティーボ・ウェルバとの間でスペイン初の公式戦が行われた。1914年にはコパ・デ・セビージャで優勝した。1935年のコパ・デル・レイ(当時はコパ・デル・プレジデンテと呼ばれていた)では決勝でCEサバデルを3-0で破って優勝した。スペイン内戦後の1938-39シーズンには、決勝でラシン・フェロルを6-2で破って2度目のコパ・デル・レイ(当時はコパ・デル・ヘネラリシモと呼ばれていた)制覇を果たした。スペイン内戦後初のリーグ戦となった1939-40シーズンにはかなりリーグ優勝に近づき、FCバルセロナに11-1で、バレンシアCFに10-3で、エルクレスCFに8-3で勝利するなど驚くべき勝利をいくつも挙げたが、エルクレスCFとのシーズン最終戦は3-3の引き分けに終わり、アトレティコ・アビアシオンに優勝をさらわれた。1942-43シーズンには再びリーグ2位となり、1943-44シーズンには3位となった。1945-46シーズンには初のプリメーラ・ディビシオン(1部)優勝を果たした。1947-48シーズンのコパ・デル・レイ決勝ではセルタ・デ・ビーゴを4-1で破って3度目の優勝を遂げた。
20世紀後半

1958年にはエスタディオ・ラモン・サンチェス・ピスフアンが完成し、レアル・ハエン戦 (3-3) で幕を開けた。1960年代はプリメーラ・ディビシオン中位に低迷し、1968-69シーズン終了後にはセグンダ・ディビシオン(2部)に降格したが、1年でプリメーラ・ディビシオン復帰を果たした[2][3]

1970年代初頭には再びセグンダ・ディビシオンに降格した。1990年代にはプリメーラ・ディビシオン中位に確固たるポジションを築いたが、1997-98シーズンにセグンダ・ディビシオン降格となった[4]。再び昇格したものの、1999-2000シーズンはわずか勝ち点28しか挙げられず、最下位でセグンダ・ディビシオン降格となった[5]
2000年代の巻き返し

2000年夏に就任したホアキン・カパロス監督の下、2000-01シーズンにはセグンダ・ディビシオンで優勝した[6]。2002年に就任した弁護士出身のホセ・マリア・デル・ニド新会長はクラブの財政を整理し、強化担当のモンチスポーツ・ディレクターの辣腕もあって強豪クラブへの道を歩み出すことになった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:208 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef