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ルキウス・アンナエウス・セネカ
Lucius Annaeus Seneca
スペイン・コルドバにある
ルキウス・アンナエウス・セネカ像
誕生紀元前1年頃、コルドバ
死没65年4月、ローマ
職業政治家、哲学者、作家他
国籍 ローマ帝国
代表作『幸福な人生について』、『寛容について』他
影響を受けたもの
アリストテレス、ストア派
影響を与えたもの
ストア派、マイスター・エックハルト,ナシーム・ニコラス・タレブ他
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ルキウス・アンナエウス・セネカ (プラド美術館)ルキウス・アンナエウス・セネカ像 プテオリ(現ポッツォーリ)出土 ワルシャワ国立美術館蔵
ルキウス・アンナエウス・セネカ(ラテン語: Lucius Annaeus Seneca、紀元前1年頃 - 65年4月)は、ユリウス=クラウディウス朝時代のローマ帝国の政治家、哲学者、詩人。
父親の大セネカ(マルクス・アンナエウス・セネカ)と区別するため小セネカ(Seneca minor)とも呼ばれる。第5代ローマ皇帝ネロの幼少期の家庭教師としても知られ、またネロの治世初期にはブレーンとして彼を支えた。古代ローマ時代のストア派哲学者でもあり、またラテン文学の白銀期に多くの悲劇・著作を記したことでも知られる。 ルキウス・アンナエウス・セネカは、同名の父ルキウスと母ヘルウィア(Helvia)の息子としてヒスパニア・バエティカ属州の州都コルドバで生まれた。セネカは次男に当たり、兄弟として長男ノウァトゥス(Novatus)、三男メラ(Mela)の2人がいたことが知られている。誕生年については確定しないが、セネカが公職より引退した62年に60歳を越えていたことなどより、紀元前1年頃(紀元前4年とも)に生まれたものとされる。父ルキウスの家系はかつてガリア・キサルピナと呼ばれた北イタリアの出身、母ヘルウィアの家系はヒスパニア土着で早くからローマ市民権を得ていたとされる。セネカ一族は騎士階級(エクィテス)に属し、地主として裕福であったが、過去に一族から元老院議員を務めた者のいない家系でもあった。 幼少期はコルドバで過ごしたが、少なくともセネカが12?13歳の頃までに父母と共にローマへ移住した。ローマで雄弁術や修辞学など基本的な教養を学んだ後、哲学を専攻。新ピタゴラス派のソティオン 20年頃、セネカは大病を患って、一時期は自殺も考えたとされる。やがて症状は小康状態に戻ったが依然として不安定であったため、本格的な療養も兼ねて、25年頃に母ヘルウィアの妹の夫にあたり、当時アエギュプトゥス総督であったガイウス・ガレリウスを頼ってエジプトへ向かった。 セネカは当時のローマ帝国の学問の中心都市の一つであったアレクサンドリアでユダヤ人の古典や古代エジプト時代から受継がれる思想を学んだ。また、ナイル川を上って上エジプトやイシス神殿を訪れた。これらの経験を元にしてセネカは「エジプトの地理と宗教典礼について」という書物を記し(既に散逸)、セネカの後の政治的な視野を広げることに繋がることとなる。また、当時、ユダヤ人共同体(ディアスポラ)の指導グループに属したアレクサンドリアのフィロンと接点を持った可能性もある。 31年、ガレリウスのアエギュプトゥス総督としての任期が終了し、ローマへ帰還するのに合わせてセネカもローマへの帰路につく。なお、ガレリウスはローマへ着く前に船の上で病没したため、セネカはガレリウスの妻で自身の叔母の支援を受けた。セネカにとって最初の任官でかつクルスス・ホノルムに該当する政務官職となったクァエストル(財務官)への就任時期は33年から35年頃と考えられている。クァエストルの任期を終えたセネカは元老院議員となり、その弁論術と哲学者としての知名度により元老院内での存在感を示していった。
生涯
幼少・青年期
エジプト滞在時期
カリグラ、クラウディウス帝在位時期伝セネカ像
37年3月、皇帝ティベリウスが死去し、ガイウス・ユリウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス(カリグラ)がローマ皇帝に即位した。カリグラが治世した当初は、カリグラの妹であるユリア・リウィッラやアグリッピナ(小アグリッピナ)の後ろ盾を得て順調であったが、37年10月にカリグラが大病を患ったことやその後の度重なる陰謀(濡れ衣であったものも多数あったとされる)が露見したことを境にしてカリグラは残忍な性格を露にし始める。39年、ゲルマニア遠征の最中にカリグラは遠征に同行していた義理の兄に当たるマルクス・アエミリウス・レピドゥス(英語版)を反逆を企てた罪で処刑し、2人の妹リウィッラとアグリッピナを追放刑とした。
後ろ盾であった2人を失った上、元老院を象徴し、弁論術で著名であったこともあり、セネカは元老院を激しく憎悪するカリグラによって処刑されそうになったが有力者からの取成しもあって難を逃れたと伝わっている。
41年1月、カリグラはプラエトリアニ(近衛隊)によって殺害され、クラウディウスが皇帝に即位した。追放されていたリウィッラとアグリッピナもローマへの帰国が認められたため、セネカも2人の取成しによって再びローマ政界へ復帰を果たした。しかし、クラウディウスの皇后であったメッサリナとリウィッラらが敵対。メッサリナはリウィッラとセネカが不義の関係にあった[1] としてセネカを告発した。セネカはこれを否定したが、罪を得たリウィッラは処刑され、セネカはコルシカへの事実上の追放刑となった。なお、セネカとリウィッラが不義の関係にあったかどうかは定かではない。