セスナ
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Cessna Aircraft Company
セスナ・エアクラフト・カンパニー

元の種類子会社
業種輸送用機械
設立1927年
創業者クライド・セスナ
ビクター・ロス
解散2014年3月テキストロン傘下へ)
本社 アメリカ合衆国 カンサス州 ウィチタ
主要人物CEOスコット・エルネスト(2011年?)[1]
製品ゼネラル・アビエーション航空機
ビジネスジェット
従業員数8,500名(2013年[2]
親会社テキストロン・アビエーション
子会社マッコーリー・プロペラ・システムズ
ウェブサイトcessna.txtav.com

セスナ・エアクラフト・カンパニー(英語:Cessna Aircraft Company)は1927年カンザス州ウィチタに設立されたアメリカの軽飛行機・ビジネス機のメーカー。軽飛行機メーカーとしてはビーチクラフトパイパー・エアクラフトと並ぶビッグスリーの一つ[3]

かつては小型単発機が中心だったことから、「セスナ」は日本では軽飛行機の代名詞となっている[4]

1990年代の初めにテキストロンに買収され、航空機部門テキストロン・アビエーション傘下となり、機体のTCホルダーも移行された[5]
概要

セスナ・エアクラフト社は1927年、カンサス州ウィチタ[6]で創業。創立者クライド・セスナは、スタントパイロットとして自作飛行機で曲技飛行ショーを行う傍ら、数々の記録[7]を樹立している。

クライド・セスナは、セスナ社設立の2年前の1925年に、ウオルター・ビーチビーチクラフトの創立者)、ロイド・ステアマン(英語版)(ステアマン・エアクラフトの創業者)らと共にトラベルエア(英語版)を設立し社長をつとめたが、設計上の意見対立(セスナが単葉にこだわったと伝えられる)から独立、1927年9月カンザス州ウィチタにセスナ・エアクラフト社を設立した。創立から間もなく大恐慌が起こり、セスナ社は1931年一時解散に追い込まれる。

1934年、甥のドゥエイン・ウォレスの出資で会社は再開、2年後の1936年、ドゥエイン自身が社長となりクライド・セスナは引退した。以後ドゥエインは1975年までセスナ社の舵取りをし、ラッセル・メイヤーがその地位を引き継ぐ。家族的な企業であるといい、未だに手造りの部分が多い小型航空機産業は、家内制手工業の側面を持つ。この点はビーチクラフトなども同様、アメリカの小型航空機産業の特徴である。

創業者のクライド・セスナは会社を退いたのち、農業に従事。その間もアメリカ航空界の先駆者として数々の栄誉と表彰を受けつつ、1954年に死去。

1952年1月14日にSeibel ヘリコプターを買収して、1956年にCH-1ヘリコプターを発売した。

現在では、1971年9月に初飛行したビジネスジェットサイテーション・シリーズが主力製品となっている。
生産モデル

第二次世界大戦中は多くの軍用機を生産。AT-17ボブキャット(英語版)は米軍の練習機として1940年から1944年に5,400機を生産している。

戦後、ただちに民間機の製造に転じた。多数の復員パイロットが自家用機やビジネス機を飛ばす時代にマッチした、操縦しやすく安全な「空のファミリーカー」という発想から生まれたのが、単発の小型機シリーズである。1963年に生産50,000機目、1975年に100,000機目の単発機が出荷された。

1980年代、世間ではPL(製造物責任、プロダクト・ライアビリティ)法が取り沙汰されるようになり、セスナ社が生産した小型レシプロ機もその標的にされ、事故や不具合に関する訴訟が次々と発生した。多くの判例同様、必ずしもメーカ側に過失責任があったわけではなかったが、生産にまつわる賠償保険料が急増して、もはやセスナ社にとって軽飛行機の生産は商業上のメリットがなくなった。1986年、セスナ社は軽飛行機の生産中止を決断、これに伴い従業員を18,000人から3,000人へ減じた。

PL法問題の渦中にあっても操業は続けられ、ビジネスジェット・サイテーションシリーズ、モデル208キャラバンが商業的に成功していた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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