セシル・B・デミル
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セシル・B・デミル
Cecil B. DeMille
1920年
本名Cecil Blount DeMille
生年月日 (1881-08-12) 1881年8月12日
没年月日 (1959-01-21) 1959年1月21日(77歳没)
出生地 アメリカ合衆国 マサチューセッツ州アシュフィールド
死没地 アメリカ合衆国 カリフォルニア州ハリウッド
職業映画監督映画プロデューサー脚本家俳優
ジャンル映画
著名な家族ウィリアム・C・デミル(兄)
主な作品
チート』(1915年)
地上最大のショウ』(1952年)
十戒』(1956年)

 受賞
アカデミー賞
作品賞
1952年地上最大のショウ
名誉賞
1949年
アービング・G・タルバーグ賞
1952年
カンヌ国際映画祭
グランプリ
1939年『大平原
ゴールデングローブ賞
監督賞
1952年『地上最大のショウ』
セシル・B・デミル賞
1951年
その他の賞
ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム
1960年

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セシル・B・デミル(Cecil Blount DeMille、1881年8月12日 - 1959年1月21日)は、アメリカ合衆国映画監督映画プロデューサー脚本家俳優20世紀前半の映画創成期に最も成功した映画製作者のひとり。『史劇の巨匠』として知られる。
生い立ち・家族

1881年8月12日マサチューセッツ州アシュフィールドにて、オランダ系移民の父と、イギリスより渡米したドイツユダヤ移民の母との間に生まれる。デミルの両親は脚本家であったが、デミルが12歳のときに父親が亡くなった為、デミルの母親は生計を立てるために女子のための学校と、劇団を設立した。デミルは演劇学校で演技を学び、1900年に舞台俳優としてデビュー。その後の12年間は俳優として、また母親の劇団のマネジメントを手がけた。1902年、21歳でコンスタンス・アダムスと結婚。4人の子供に恵まれている[1]

兄のウィリアム・C・デミルも同じく映画界で脚本家・映画監督として、その名を知られると共に、孫娘のセシリア・デミル・プレスリーも映画プロデューサーとして活躍している。また、息子のリチャード・デ・ミル(en:Richard de Mille)はジャーナリストとしてマーティン・マクマホーンとの共著「呪術師カスタネダ - 世界を止めた人類学者の虚実」という本を出版している。
キャリア
監督デビュー

1920年代の人気が訪れるよりも前に、1913年以降の監督第1作ほか、数多くのサイレント映画の短編作品を監督した。エジソンの作った映画特許会社MPPC(→スタジオ・システム)の手から逃れるためにハリウッドで映画製作をしたのである。

1913年には、映画プロデューサージェシー・L・ラスキーらが設立した映画会社にて、ハリウッド初の長編映画(80分以上)である「スコウ・マン」を監督し人気を呼んだ。後にこの会社は、アドルフ・ズーカー(Adolph Zukor)率いるフェイマス・プレイヤーズ・フィルム・カンパニーと合併し、現在のパラマウント映画となった。

1915年には「チート」で早川雪洲をトップスターにしたほか[2]、運転手兼従者にヤマベという日本人を雇っており、欧州旅行などにも同行させていた[3][4]
人気監督

1920年代のデミルは、第一次世界大戦後の好況期における大衆の享楽志向を捉えヒット作を連発、デミルはハリウッド映画の創生期の実力者にのし上がる。デミルの成功の秘訣は、たとえ男性客を喜ばすようなシーンであっても、女性も画面に釘付けになるように演出を仕組むことにあった。

例えばバスルームのシーンではバスローブもネグリジェも最高の品を用意させ、女優たちが身につける豪勢なジュエリーなどの宝石類はすべて本物で撮影した。誰もが目を奪われるほどの絢爛豪華な衣装はデミルの映画の代名詞ともなり、多くの女性客を魅了した。このようなに糸目をつけない派手な演出は多くの集客に効果をみせ、夫やボーイフレンド連れの女性らがデミルの映画を見に劇場へ通うようになった。

しかし、このような演出で撮影された作品群に、保守派や宗教団体らが黙っているわけはなかった。デミル自身、一斉に自分の映画が世論からボイコットされる予感もしていた。
「デミル王国」

十誡』(1923年)制作前後、デミルの作風は再度転換期を迎えた。旧約聖書という固い主題の作品を扱えば、そのような世論の動きが鎮まるのではないかと映画製作へ踏み切った。しかし、デミルの豪華主義は相変わらずで、映画会社の製作資金を湯水のようにつぎ込んだ。劇中では3千人もの人員や何千頭もの家畜をエキストラとして動員し、モーゼ紅海の海水を割るシーンの派手さは後々までの語りぐさとなるほどであった。

当初の予想に反してこの映画がヒットし制作費を超える収益をあげたデミルは、続けて『キング・オブ・キングス』(1927年)、『暴君ネロ』(1932年)、『クレオパトラ』(1934年)など一連の歴史ものを制作し、次々と成功を収めていく。この頃マスコミは、社内で大勢の側近を従え、シルクシャツ乗馬用のブーツをはき、気障に決めたスタイルのデミルを揶揄し、デミルの所属するパラマウント・スタジオを「デミル王国」とも呼んだ。1927年5月11日に設立された「映画芸術科学アカデミー」の36名の創立会員の1人としても名を連ねている。

次にデミルの作風が転換したのは、西部開拓史を舞台とする作品を撮り始めた1930年代後半である。この頃の『平原児』(1937年)や『大平原』(1939年)などの作品は、アジアヨーロッパにおいて戦雲たれ込める中、揺れ動くアメリカの世情を反映し、アメリカ国民の愛国心を鼓舞することを意図した作品群と位置付けられる。また、「老い」を迎えようとするデミルの製作姿勢の変化を印象付けた。
晩年

第二次世界大戦後の晩年には、時代の趨勢により、スタジオ・システムが崩壊し、テレビに押された「映画」の復権をめざすようになった。デミルにとって映画は自らの人生を賭けた王国であり領域であった。


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