セシル・フィルダー
Cecil Fielderデトロイト・タイガースでの現役時代
(1996年7月7日)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地カリフォルニア州ロサンゼルス
生年月日 (1963-09-21) 1963年9月21日(60歳)
身長
体重6' 3" =約190.5 cm
275 lb =約124.7 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション一塁手
プロ入り1982年 MLBドラフト4巡目
初出場MLB / 1985年7月20日
NPB / 1989年4月8日
最終出場MLB / 1998年9月13日
NPB / 1989年9月14日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
ネバダ大学ラスベガス校
トロント・ブルージェイズ (1985 - 1988)
阪神タイガース (1989)
デトロイト・タイガース (1990 - 1996)
ニューヨーク・ヤンキース (1996 - 1997)
アナハイム・エンゼルス (1998)
クリーブランド・インディアンス (1998)
監督歴
シャーロット・カントリー・レッドフィッシュ
セシル・グラント・フィルダー(Cecil Grant Fielder , 1963年9月21日 - )は、アメリカ合衆国・カリフォルニア州ロサンゼルス出身の元プロ野球選手(内野手)。
長男は元メジャーリーガーのプリンス・フィルダー。 1982年のMLBドラフト4巡目でカンザスシティ・ロイヤルズに指名され契約。1985年、トロント・ブルージェイズでメジャー初昇格。しかし、同時期にブルージェイズには、ウィリー・アップショー(後にダイエーでプレー)およびフレッド・マグリフが競合する一塁及びDHにいたことから、左投手専門のDH、一塁手および代打要員で、なかなか出場機会に恵まれなかったため、日本を含めてレギュラーを確約できる球団を探していたところ、阪神タイガースから4番打者としてオファーがあったこともあり、初めてアメリカ国外でプレーすることとなる。 1989年に阪神に入団し、来日。そのスイングの豪快さから、「荒熊」というニックネームが付けられる(命名は日刊スポーツ[1])。春季キャンプで御子柴進の横手投げになすすべなく押さえ込まれたことを契機に石井晶打撃コーチとともにフォームを改造。スライダーやフォークに対応できるようになったことでこの年以降の本領発揮につながった[2]。 特に対大洋戦には滅法強く、横浜スタジアムでは1試合で場外本塁打を含む3打席連続本塁打を放つなど、対大洋戦だけで本塁打16本を記録する。逆に、対巨人戦は本塁打3本と弱かったが、うち1本は香田勲男から打った東京ドームの看板直撃の特大ホームランだった。 同年9月14日の対巨人戦(東京ドーム)で、水野雄仁から三振を喫した際、腹いせに地面に叩きつけたバットが手に当たり骨折[3]。そのままシーズンを棒に振り、本塁打王のタイトルを逃す。それでも、長打率.6276は、その年両リーグ最多の49本塁打を放ったラルフ・ブライアントの.6275を上回って両リーグ1位であった。オフは契約更新を望む阪神に対して、年俸の大幅アップと5年契約を要求するが、合意に達せず1年で退団となった。その後、デトロイト・タイガースと契約する。この退団に関しては、この年本塁打王を獲得したラリー・パリッシュ(ヤクルトスワローズ)が三振の多さを理由に解雇されたことも影響しており、フィルダーの代理人がパリッシュの解雇に激怒し、「日本の球団は理解できない」と5年契約の締結寸前に一方的に契約を破棄した。このことからパリッシュも責任を感じ、阪神へ移籍した。 メジャー復帰後1年目の1990年に、ジョージ・フォスターが1977年に記録して以来、メジャーにおいて13年ぶりとなる50本塁打以上を記録する。また、翌年の1991年とあわせて本塁打王、打点王のタイトル二冠を2年連続で獲得する。1992年にも打点王を獲得し、ベーブ・ルース以来のアメリカンリーグにおける3年連続の打点王となる。MVP級の活躍であったが、1990年は、リッキー・ヘンダーソン(1位投票数28のうち14票、フィルダーは10票)に、1991年は、カル・リプケン・ジュニア(1位投票数28のうち15票、フィルダーは9票)に僅差で敗れ、それぞれ2位に終わっている。 当時のタイガースの監督であったスパーキー・アンダーソンは、同じく日本からの出戻り組のビル・ガリクソンがチームに在籍して活躍していたこともあって、「日本製品は素晴らしい!!」と形容したこともあった。また、タイガースの本拠地があるデトロイトでは、地元の新聞に「デトロイトが受け入れた唯一の日本製品」と称されたこともあった(当時日本とは貿易摩擦が問題となっており、デトロイトの主要産業である車が日本からの輸入車で苦戦を強いられていたため、特にデトロイトでは日本に対する反感が強かった)。 日本帰りであったことから、その肥満体型を揶揄してスモーレスラーなどと呼ばれることもあった。不振が続いた時のブーイングでは、必ずこの名称で呼ばれていた。阪神からメジャーに復帰した際にも、「なぜあのような肥満をとった?」とチーム関係者及びファンからの非難があったが、本塁打を量産することによりそれらの声を打ち消した。その肥満体型故にメジャーリーグでも屈指の鈍足として知られた。1996年に初めて盗塁を成功させた際には、敵地にもかかわらずスタンディングオベーションが巻き起こり、フィルダーは二塁塁上でヘルメットをとり両手を挙げて応えた。また、その翌日には新聞の一面を飾ったほどである。この初盗塁を決めるまでに1096試合も要しているが、これは盗塁を記録しなかったメジャー最多連続試合数である。また、この年はもう一つ盗塁を成功させているが、フィルダーが盗塁を成功させたのは後にも先にもこのシーズンだけである。 1992年には、ロブ・ディアー(後に阪神でプレー)およびミッキー・テトルトンと30発トリオを結成したが、それは同時に130三振トリオでもあり、打率が低く、三振が多く、しかも投手力が弱かったため、チームの成績は振るわなかった。 1996年途中にルーベン・シエラとのトレードでニューヨーク・ヤンキースへ移籍し、ワールドシリーズを制して世界一となった。1998年にはアナハイム・エンゼルスに移籍するもシーズン途中に解雇され、同シーズン中にクリーブランド・インディアンスへ移籍。同年引退。 引退後は、かねてから長距離砲として注目されていた、長男プリンス・フィルダーの代理人に専念する。 2004年になって突然、「セシル・フィルダーがギャンブル癖で莫大な借金を抱えて自己破産した上に蒸発した」というニュースが流れた。
来歴・人物