セシル・カルバート_(第2代ボルティモア男爵)
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ボルティモア卿セシル・カルバート
The Lord Baltimore
ボルティモア卿の死後の肖像画、フローレンス・マックビン画、1910年

ニューファンドランド(アバロン)総督
任期
1629年 ? 1632年
君主チャールズ1世
メリーランド植民地領主
任期
1632年 ? 1675年

個人情報
生誕 (1605-08-08) 1605年8月8日
イングランドケント[1]
死没1675年11月30日(1675-11-30)(70歳)
イングランド、ミドルセックス
配偶者アン・アランデル
親戚第4代ボルティモア男爵ベネディクト・カルバート(孫)
子供チャールズ・カルバート (第3代ボルティモア男爵)
出身校トリニティ・カレッジ(オックスフォード大学
職業弁護士
政治家
宗教ローマ・カトリック教会

第2代ボルティモア男爵セシル・カルバート(: Cecil Calvert, 2nd Baron Baltimore、1605年8月8日 - 1675年11月30日)は、イングランド生まれの政治家、また北アメリカメリーランド植民地の初代領主かつ領主総督であり、ニューファンドランド植民地アバロン植民地の第9代領主総督だった。その称号は「セシル・カルバート、第2代ボルティモア男爵、アメリカのメリーランド植民地とアバロン植民地の初代領主、パラタイン伯爵」である。メリーランド植民地の領主となるはずの、父である初代ボルティモア男爵ジョージ・カルバートの死(1632年4月15日)によって領主を引き継いだ。カルバートはイングランドのノース・ヨークシャーにあった私宅キプリン・ホールからメリーランド植民地を設立して管理した。イングランドのローマ・カトリック教徒として、植民地における信教の寛容さを促進することで、父の遺産を継いだ。

メリーランドは新世界でカトリック教徒の逃避場となり、特にイングランドで宗教的な迫害があった時代なのでなおさら重要だった。カルバートはメリーランドを42年間統治した[2]。ニューファンドランド島南東部のアバロン植民地のためにニューファンドランド領主かつ総督でもあり続けた。カルバートは1675年11月30日にイングランドで死んだ。満70歳だった。ロンドンのセントジャイルズ・イン・ザ・フィールズ教会に埋葬されていると考えられている[3][4]。その墓の正確な位置は不明だが、教区記録には埋葬されていることになっている[5]。セシル・カルバートを記念する銘板が、1996年、メリーランド州知事によってセントジャイルズに置かれた。しかし、キプリン・ホールの系譜学者は、「カルバート家初期の多くの者がロンドンはチャリングクロス道路のセントジャイルズ・イン・ザ・フィールズに埋葬されている。...我々はセシルが彼らの一人であるかいまだに確信できていない」と述べている[6]。これはおそらくカトリックの埋葬録の管理が悪いためであるか[7]、埋葬役の手におえないほど疫病の蔓延で死者が出て、教区記録に混乱を生じさせたかである[8]
初期の経歴と教育歴

セシル・カルバートは1605年8月8日、イングランドのケントで生まれた。父は初代ボルティモア男爵ジョージ・カルバート、母はアン(旧姓マインあるいはメイン)だった[9]。この夫妻に数人居た息子達の中で長男だった。当時、父はイングランド国教会遵奉の圧力を受けており、10人の子供は全てイングランド国教会(プロテスタント)の儀礼に従ってキリスト教徒として洗礼を受けた[10]

1621年、カルバートはオックスフォード大学のトリニティ・カレッジに入学した。母のアン・マインが翌年死んだ[10]。父は1625年にローマ・カトリック教会に改宗し、その子供たちもそれに従った可能性が強い。少なくとも息子達は全て改宗した。

1628年、セシル・カルバートは父や兄弟の大半、義母と共にニューファンドランドの新しい植民地に渡った。この植民地は病気、厳しい寒さおよびフランスからの攻撃があって失敗し、家族はイングランドに戻った。

1633年8月8日、カルバートはグレイ法曹院にバリスター(法廷弁護士)として受け入れられた[9]
メリーランド植民地の入植
メリーランド憲章

カルバートはイングランド王チャールズ1世からメリーランドの新植民地のための憲章を受けた。そこは、チャールズ1世の妻である王妃ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランスにちなんで名付けられるものとしていた。カルバートの父は大西洋岸中部地域に植民地を設立する憲章を長いこと求めており、それをイングランドにいるローマ・カトリック教徒の逃避場とするつもりだったが、憲章が出たのはその父の死から間もない時期だった。当初払い下げられた領域にはチェサピーク湾の西岸を南にポトマック川までと、東海岸(後のデルマーバ半島)の全体が含まれていた。英王室が、バージニア植民地の開拓者達が既に湾を渡って東海岸の南端に入植していたのを認識したとき、払い下げ範囲はポトマック川の河口から東に引かれた線を東海岸部の南端とするように改定された(ただし、現在のデラウェア州は含んでいた)。この修正が行われると、最終的な憲章が1632年6月20日に確認された。この憲章の内容はカルバートの子孫とペンシルベニア植民地創設者のペン家との間で激しく争われることになった。ペン=カルバート境界論争と呼ばれた。

この憲章は法的に国王から土地を賃貸するものであり、それに対してカルバートが支払うものは発見された金と銀の5分の1と、毎年復活祭にウィンザー城にインディアンの矢2本を届けることだった[11]。憲章によってメリーランドは世襲領地となっており、カルバートとその子孫は独立国に等しい権限を与えられ、例えば戦争を行う権利、税金を徴収する権利、植民で貴族制を設立する権利もあった[12]。その権利の解釈に疑問があるとしても、領主に有利になるように解釈された[13]。イングランドにいるバージニア植民地の支持者はその憲章に反対した。彼らは北の植民地と競合することに何の利益も見い出さなかったからだった[14]。カルバートは自ら植民地に行くよりも、イングランドに留まり政治的な脅しをかけていることを選び、植民地には次弟のレナードを代理として送った。カルバート自身がメリーランドを訪れることは一度も無かった[14]

アメリカ遠征の準備がなされる中で、カルバートはイングランドにあって元バージニア会社のメンバーから1632年憲章を守ることに忙しかった。彼らはメリーランドの新植民地全体を含む最初の憲章を取り戻そうとしていた。メリーランドの一帯はバージニアの一部として表現される領域の中に含まれていた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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