セシリー・ネヴィル
Cecily Neville
出生 (1415-05-03) 1415年5月3日
イングランド王国、ダラム、レイビー城
セシリー・ネヴィル(Cecily Neville, 1415年5月3日 - 1495年5月31日)は、15世紀イングランドの貴族夫人。ヨーク公リチャード・プランタジネットの妻で、イングランド王エドワード4世とリチャード3世の母である。 セシリー・ネヴィルはウェストモーランド伯ラルフ・ネヴィルとジョーン・ボーフォートの娘である。母方の祖父母はランカスター公ジョン・オブ・ゴーントとキャサリン・スウィンフォードであり、夫のヨーク家と敵対したランカスター家の支族であるボーフォート家と母方でつながっている。 異母兄にネヴィル卿ジョン・ネヴィル
生涯
出自
セシリーにはいくつかの呼び名があった。
「レヴィの薔薇」(ダラムのレヴィ城で生まれたことに由来)
「誇り高きシス」(誇り高い気質に由来)
また、歴史的には信心深い人物として知られている。
自身では名をCecilyではなくCecylleと署名していた。 イングランド北部ダラムのレイビー城
ヨーク公妃
ヨーク公が1441年にフランス総督になってルーアンに赴任した時、セシリーは夫について行った。2月に息子ヘンリーが生まれたが、すぐ後に死んだ。
未来の国王であるエドワードは、ルーアンで1442年4月28日に生まれ、すぐに洗礼を施された。エドワードの誕生日については、ヨーク公不在の時期にあたるため、後にエドワードがヨーク公の実子ではないという議論がなされることになる。実際の所はどうなのかは不明であるが、事実としてエドワードは早産であり、早逝の恐れがあったので急いで洗礼を施された。
1453年頃、ヨーク公がサマセット公エドムンド・ボーフォート(セシリーの母方の従兄)の権勢に憤慨し始めた頃に、セシリーはヨーク公の代理として国王ヘンリー6世妃マーガレット・オブ・アンジューと話をした。ヘンリー6世がその年遅くに神経衰弱をこうむった時、ヨーク公は自身を摂政(護国卿)として認めさせた。
薔薇戦争の勃発後、ヨーク公がアイルランドやヨーロッパ大陸に逃亡した時でも、セシリーはラドローに残った。おそらく姉のアン・ネヴィル(バッキンガム公ハンフリー・スタッフォードの妻)に保護されていたのだろう。同時に彼女は、内密にヨーク派のためにも活動を行っていた。
ラドフォード橋の戦いにおける大敗でヨーク派が瓦解して、ヨーク公自身もアイルランドに逃亡していた1459年11月、ヨーク派の処遇を検討する議会が開かれた。セシリーは夫の嘆願のためロンドンに出向いた。当時の記録によると、もしヨーク公が8日以内に議会に出頭すれば恩赦にするよう、国王を説得していたと言われる。結局ヨーク公の所領は没収されたが、自身と子供たちのために年間600ポンドの年金を受け取ることに成功した。1460年1月、彼女はケントを訪問し、ケント派の代表者と来るべき同盟について会談した。
ノーサンプトンの戦いでのヨーク派の大勝を受けて、1460年7月にセシリーはロンドンに移り住み、子供たちやジョン・パストンと一緒に住んだ。10月に夫が公式にヘンリー6世の王位継承者になると、セシリーも次期王妃になり、史官ジョン・ハーディングからイングランド編年史のコピーを受け取りさえした。
ところが、12月30日のウェイクフィールドの戦いでヨーク派は惨敗する。ヨーク公のほか、次男のラトランド伯エドムンド、セシリーの兄ソールズベリー伯も戦死した。セシリーは幼い息子たちをブルゴーニュ公フィリップ3世(善良公)の宮廷に預ける。これによってブルゴーニュはヨーク派と同盟を結ぶことになる。 セシリーがロンドンのベイナード城に移ると、そこがヨーク派の作戦本部になった。長男エドワードはうまくランカスター派に対する戦いを続け、ランカスター派を打ち破ってエドワード4世として即位した。セシリーは王太后になった。 エドワード4世の統治の初期には、セシリーは息子の横にあって影響力を行使した。1461年、彼女は紋章を修正した。これは夫が正当な国王であったことをほのめかすために、イングランドの王室の紋章を取り入れたものである。エドワード4世がエリザベス・ウッドヴィルと結婚した時、彼は母が住み慣れた場所に住み続けられるよう、王妃のために新しく居館を建てた。 1469年、セシリーの甥(兄の子)であり、息子のクラレンス公ジョージの義父でもあるウォリック伯リチャード・ネヴィルが国王に反旗を翻した。ウォリック伯は「エドワード4世は私生児であり、本当の父親はルーアンのベンバーンという名前の弓の射手であった」という噂を広め始めた。ウォリック伯は、正統な王位継承者はクラレンス公であるとしたかったのである(もっともウォリック伯は以前にマーガレット・オブ・アンジューに対して似たような非難をしており、後にウィリアム・シェイクスピアは『リチャード三世』の劇中でこのクレームを使っている)。
王母