セオドア・S・ウィルキンソン
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セオドア・スターク・ウィルキンソン
Theodore Stark Wilkinson
セオドア・S・ウィルキンソン(1944年)
渾名"Ping" (ピング)
生誕1888年12月22日
メリーランド州 アナポリス
死没 (1946-02-21) 1946年2月21日(57歳没)
バージニア州 ノーフォーク
所属組織アメリカ海軍
軍歴1909 - 1946
最終階級 海軍中将
除隊後(現役中に死去)
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“ピング”セオドア・スターク・ウィルキンソン(Theodore Stark Wilkinson, 1888年12月22日-1946年2月21日)はアメリカ海軍の軍人、最終階級は中将名誉勲章受章者。1943年7月以降のソロモン諸島の戦いなどの上陸戦において、アメリカ海軍の両用戦部隊司令官の一人として活躍した。
目次

1 生涯

1.1 名誉勲章

1.2 第一次世界大戦と戦間期

1.3 真珠湾攻撃

1.4 第3両用戦部隊司令官

1.5 戦後


2 脚注

2.1 注釈

2.2 出典


3 参考文献

4 外部リンク

生涯
名誉勲章

“ピング”こと、セオドア・スターク・ウィルキンソンは1888年12月22日、メリーランド州アナポリスで、アーネスト・ウィルキンソン海軍少尉の息子として生まれる[1]。1905年に海軍兵学校(アナポリス)に入学し、1909年に首位の成績で卒業した。アナポリス時代はスポーツに長け、ニックネームの「ピング」は、特にテニス卓球を得意としていたことから名づけられた[1]。卒業年次から「アナポリス1909年組」と呼称された世代からはレイテ沖海戦におけるスリガオ海峡夜戦で戦艦部隊を指揮したジェシー・B・オルデンドルフ、戦艦「ノースカロライナ」初代艦長オーラフ・M・ハストベット、初代海軍作戦部長ウィリアム・S・ベンソンを父に持つ戦艦「ワシントン」初代艦長ハワード・H・J・ベンソンらがいる[2][注釈 1]

アナポリス卒業後、ウィルキンソンは候補生として2年間の海外勤務の義務のため、戦艦カンザス」 (USS Kansas, BB-21) および「サウスカロライナ」 (USS South Carolina, BB-26) 乗り組みとなる。1911年6月5日に少尉に任官後、ワシントンD.C.ジョージ・ワシントン大学に籍を置きながら海軍省兵站局(英語版)に勤務し、1913年7月25日に戦艦「フロリダ」 (USS Florida, BB-30) に配属され、再び国外での任務に就く。時はメキシコ革命の最中、「フロリダ」もベラクルスに派遣される。1914年4月21日から22日にかけて、ウィルキンソンは「フロリダ」の第2陸戦隊を率いてベラクルスでの戦闘に加わって税関を占領[1]。「熟練して勇敢なリーダーシップを発揮し、卓越して顕著である行為」が認められて名誉勲章を授与された。この時、ウィルキンソン以外に名誉勲章を授与された者の中には、空母任務群を指揮したフランク・J・フレッチャー(アナポリス1906年組)や室蘭艦砲射撃を行ったオスカー・C・バジャー2世(英語版)(アナポリス1911年組[3])、アメリカ海軍航空隊の礎を築いたウィリアム・A・モフェット(アナポリス1890年組[4])などがいる[5]。名誉勲章感状

階級と所属:アメリカ海軍、生地と年月日:1888年12月22日, アナポリス, メリーランド、推薦:ルイジアナ州第177番, 1915年12月4日付、他の受章歴:殊勲章, 金星章
1914年4月21日及び22日のベラクルスにおける戦闘において、ウィルキンソン少尉は両日の戦闘に参加し、熟練して勇敢なリーダーシップを発揮して卓越して顕著である行為が認められた。
第一次世界大戦と戦間期

名誉勲章受章者となったウィルキンソンは、8月4日に装甲巡洋艦テネシー」 (USS Tennessee, ACR-10) に乗り組んで、2日後には大西洋に向かう。「テネシー」と「ノースカロライナ」 (USS North Carolina, ACR-12) は、第一次世界大戦勃発によってヨーロッパ大陸に取り残されたアメリカ国民を収容する任務に就いていた。9月3日にパリで海軍武官付となったあと、地中海方面で行動していた「ノースカロライナ」に合流し、大西洋艦隊第7分隊および第2分隊の指揮官となった。

1916年7月から1919年7月までの間、ウィルキンソンは兵站局実験部門のトップとなる。この時代、兵站局実験部門ではウィルキンソンの指揮の下で2つの顕著な開発品があった。一つは毒ガスを仕込んだ煙幕であり、もう一つはマーク6型機雷用の発火装置だった。後者は、ドイツUボート北海を通って外洋に出るのを阻止するために構築された北海機雷堰(英語版)で使用された[6]。アメリカ海軍では1970年代までに退役したものの、海上自衛隊が国産化した66式機雷1990年代に入っても現役であった[7]

ウィルキンソンはしばらくの間、陸上勤務と海上勤務を行ったりきたりする。「カンザス」および「ペンシルベニア」 (USS Pennsylvania, BB-38) で砲術長を務め、1921年から1922年の間は駆逐艦「オスボーン(英語版)」 (USS Osborne, DD-295) 、「ゴフ(英語版)」 (USS Goff, DD-247) および「テイラー(英語版)」 (USS Taylor, DD-97) の艦長を務め、兵站局実験部門に復帰した。その後は1925年1月から1926年12月まで駆逐艦「キング」 (USS King, DD-242) 艦長を務めたあとは海軍省航海局(英語版)将校人事課の記録部門のトップとなった。1930年6月、ウィルキンソンは偵察艦隊司令官アーサー・L・ウィラード(英語版)少将(アナポリス1891年組[8])の下で砲術参謀を務め、1931年12月には将官会議(英語版)の秘書官となる。


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