セオドア・ルーズベルト_(空母)
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セオドア・ルーズベルト
2020年撮影
基本情報
建造所ニューポート・ニューズ造船所
運用者 アメリカ海軍
艦種航空母艦原子力空母
級名ニミッツ級航空母艦
愛称Big Stick(ビッグスティック)
T.R.
モットーQui Plantavit Curabit (He who has planted will preserve.)
母港ノースアイランド海軍航空基地
所属太平洋艦隊第9空母打撃群
艦歴
発注1980年9月30日
起工1981年10月31日
進水1984年10月27日
就役1986年10月25日
要目
満載排水量104,581 t 以上
(104,600 L/T; 117,200 S/T)
全長1,092 ft(=約332.84 m
最大幅全幅 不明
ビーム全長 252 ft(=約76.81 m)
吃水線ビーム 134 ft(=約40.84 m)
吃水平時最大 37 ft(=約11.28 m)
非常時最大 41 ft(=約12.50 m)
主機蒸気タービン 4基
原子炉ウェスティングハウスA4W加圧水型原子炉 2基
推進スクリュープロペラ 4軸
出力260,000 hps(=約193.882 MW
速力30 kn (=約55.56 km/h) 以上
乗員士官・兵員:3,950名
航空要員:2,480名
兵装・RIM-7 シースパロー短SAM 8連装発射機2基
RIM-116 RAM 21連装発射機2基
ファランクスCIWS 2基
搭載機冷戦期:90機
冷戦終了後:70機前後
その他MMSI 366984000
記章大統領の肖像画とイニシャル、そして、本艦のシルエットを中央に配している。
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セオドア・ルーズベルト (USS Theodore Roosevelt, CVN-71) は、アメリカ海軍ニミッツ級航空母艦の4番艦。ニミッツ級は史上最大級の軍艦として知られており、排水量では史上最大の艦級(英語版)であるが、中でも4番艦である本艦は単独で史上最大の軍艦である(※後述および別項も参照)。

艦名は第26代アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトにちなんで命名された。ルーズベルトのコールサイン「ラフ・ライダー」(Rough Rider)は、ルーズベルト大統領が米西戦争に従軍した際に指揮した第1合衆国義勇騎兵隊の愛称である。
艦歴爆発による衝撃テストを受ける本艦(1987年9月17日、海軍による撮影)

セオドア・ルーズベルトの建造契約は1980年9月30日に結ばれる。1981年10月31日、バージニア州ニューポート・ニューズ造船所で起工、当時の国防長官キャスパー・ワインバーガーが最初の溶接点を認証した。1984年2月にポール・W・パーセルズ (Paul W. Parcels) 大佐[1]が初代艦長に決定する。同年10月に進水、1986年10月25日に就役した。

建造にはニミッツ級で初めて船体各所をモジュール化して組み立てる方式が取られた。大型機器を先に搭載するなどしたため、組み立てた後に再度溶接する作業が減少し工期は短くなっている。これ以降のニミッツ級は全てこの工法で建造されることとなる。同級の前3隻からの広範囲な変更点により、ルーズベルト以降の7隻は「セオドア・ルーズベルト級航空母艦」としばしば呼ばれる。

1987年10月3日にデイトン・W・リット (Dayton W. Ritt) 大佐が2代目艦長として着任した。翌1988年12月30日に初の配備が行われた。
湾岸戦争第154任務部隊のズールー戦闘団を高空から捉えた空中写真。本艦は右上の1隻。

1990年6月9日、チャールズ・S・アボット (Charles S. Abbot) 大佐が3代目艦長として着任し、同年12月28日にルーズベルトと第8空母航空団(英語版) (Carrier Air Wing Eight, CVW-8) は砂漠の盾作戦のために母港のノーフォークを出港した。ルーズベルトは1991年1月17日の湾岸戦争砂漠の嵐作戦)開戦には間に合わず、同月21日にペルシャ湾に到着。先に展開していたミッドウェイ (USS Midway, CV-41)、および、レンジャー (USS Ranger, CV-61) の空母群と合流し、タスクフォース154(第154任務部隊)として「バトルフォース・ズル(ズールー戦闘団;Battle Force Zulu; BFZ)」を編成した。これにより、紅海に展開している3隻の空母、サラトガ (USS Saratoga, CV-60)、アメリカ (USS America, CV-66)、および、ジョン・F・ケネディ (USS John F. Kennedy, CV-67) からなる「バトルフォース・レッドシー(レッドシー戦闘団;Battle Force Red Sea; BFRS)」と合わせ、歴史上稀に見る空母6隻による同時アルファ・ストライク隊の出撃が記録された。

ルーズベルトにとってはこれが初の実戦参加で、また、砂漠の嵐作戦に参加した空母の中で唯一の原子力艦でもあった。作戦初期の段階ではルーズベルトを含む空母群BFZはイラクから離れたオマーン湾に展開していたが、これはペルシャ湾には小規模ながらもイラク海軍の脅威があり、また、イラク空軍機からの対艦攻撃も懸念されていたためである。そのため、紅海に展開するBFRSよりも出撃一回あたりにかかる飛行時間が長く、また、空軍からの空中給油機の支援も限定的であったことから出撃数を稼ぐことができなかった。しかし、同1991年2月3日にペルシャ湾の制海権が確保されたことにより、BFZはクウェート沖まで北上することができ、以降は出撃数が増加した。飛行甲板に本艦の愛称 "Big Stick" が描かれている(1999年撮影)

最終的に艦載された第8空母航空団は同1991年2月28日の停戦までに4,149回の出撃と4,500,000ポンドの爆弾投下を記録。これは参加した空母6隻中最多である。ただし損失も多く、同月2日に所属のA-6Eを1機撃墜(戦闘損失)され乗員2名を失い、また1月24日と2月5日にはF/A-18Aを事故(運用損失)で2機失っている。本航海中には出港直後の同年12月31日にもEA-6Bを事故で損失しているため、合わせて4機を失ったことになる。これは運用損失だけを見ても平時の航海ではまずない数字であり、実戦環境の厳しさを物語っている。なお、本作戦中損失機が最も多かったのはサラトガ艦載の第17空母航空団の戦闘損失機4機である。

停戦後は作戦に参加した空母が次々と帰国するなか、ルーズベルトと第8空母航空団はプロバイド・コンフォート作戦に参加し、イラク北部上空を警戒飛行した最初の連合軍部隊の一部になった。189日間の配備が完了すると、ルーズベルトは湾岸戦争に直接参加した空母の最後として1991年6月28日にノーフォークに帰還した。1992年2月14日、ルーズベルトは2度目の戦闘効率賞を受賞した。これは、1991年に大西洋艦隊における最優秀艦として受賞したバッテンベルク・カップに続くものであった。

1992年8月27日、スタンリー・W・ブライアント(Stanley W. Bryant)大佐が4代目艦長として着任する。
2000年代

2000年1月7日、ルーズベルトはノーフォーク海軍造船所で増加信頼性試験を開始する。作業は同年6月30日に完了し、海上公試を開始した。また、同年中に8代目艦長としてR・J・オハンロン (R. J. O'Hanlon) 大佐が着任している。

2001年8月に訓練を完了し、9月19日に第1空母航空団と共に7回目の配備を開始する。大西洋を通過後、部隊は不朽の自由作戦の支援を行う。作戦は周辺諸国と協力してアル・カーイダを攻撃し、アフガニスタンに安定政権を樹立することであった。ルーズベルトは159日間の海上活動の後、第二次世界大戦以来最長の活動記録を達成した。


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