セイラム魔女裁判
1876年に描かれたこのイラストの中央部で倒れている少女は、メアリー・ウォルコットと考えられている。
別名Salem witch trials
起因魔女狩り
場所セイラム(現:ダンバース)他
日付1692年-1693年
結果刑死19名、獄死5名、圧死1名
セイラム魔女裁判(セイラムまじょさいばん 英語: Salem witch trials)とは、現在のアメリカ合衆国ニューイングランド地方のマサチューセッツ州セイラム村(現在のダンバース)で1692年3月1日に始まった一連の裁判である。200名近い村人が魔女として告発され、19名が刑死、1名が拷問中に圧死、2人の乳児を含む5名が獄死した。近世キリスト教世界の広い範囲に及んだ魔女裁判(魔女狩り)という現象の植民地アメリカにおける例であり、犠牲者数はヨーロッパの事例と比べれば際立ったものではないものの、現代では近世の魔女裁判の中で最も有名な事件であると考えられている[1]。
この事件は、植民地時代アメリカにおける集団パニックの最も深刻な事例の一つである。孤立主義、宗教過激主義、虚偽の告発、正当なプロセスの遂行が孕む危険性について、鮮明な警鐘を呼び掛ける題材として、政治的文脈や大衆文学に用いられている[2]。多くの歴史家は、セイラム魔女裁判はその後の米国の裁判制度に対して非常に強い影響力を及ぼしたと考えている。歴史家のジョージ・リンカーン・バーは、「セイラムの魔法は、神権政治を崩壊させた」と評しており[3]、無実とされる人々が次々と告発されて裁判にかけられたその経緯は、集団心理の暴走の例としても引用されることが多い。
「セイラム」の名を冠するとおり、事件の舞台となったのはセイラム町(現在のセイラム市)近郊のセイラム村(現在のダンバース)であるが、予備審問はセイラム村、セイラム町の他にイプスウィッチ、アンドーバーといった複数の町で行われた。1692年5月27日にセイラム町に開設されたオイヤー・アンド・ターミナー裁判所が、10月29日に解散されるまでに行った裁判が最も悪名高い。
背景ダンバースにあるセイラム魔女裁判の銘板
セイラムは、イギリスの牧師ジョン・ホワイト
(英語版)が発起した植民地会社ドーチェスター・カンパニー・オブ・アドベンチャラーズ(英語版)が開発した街であった。街として属していたマサチューセッツ湾植民地が解体されたのちは、イギリス国王ジェームズ2世支配のニューイングランド自治領に属したが、植民地旧勢力がボストン暴動を起こした影響で、1692年にマサチューセッツ湾直轄植民地が発足した。
魔女裁判は17世紀半ばまでにヨーロッパの多くの地域で衰退し始めていたが、ヨーロッパの周縁とアメリカ植民地で続いていた。この事件より前に、17世紀にマサチューセッツ地域とコネチカット地域で12人の女性が処刑されていた。
セイラムの1692-1693年の出来事は、新世界で一種の爆発的なヒステリーとなったが、ヨーロッパのほとんどの地域では魔女裁判は既に衰退していた。 セイラム村の牧師サミュエル・パリスの娘ベティと従姉妹アビゲイル・ウィリアムズは、友人らとともに親に隠れて降霊会に参加していた。その術中、アビゲイルが突然暴れだすなど奇妙な行動をとるようになり、2人は医師によって悪魔憑きと診断された。サミュエルは南アメリカ先住民の使用人ティテュバを疑い、彼女を拷問してブードゥーの妖術を使ったことを「自白」させた。ティテュバの自白以降、降霊会の参加者である更に多くの少女たちが、次々と異常な行動をおこすようになり、近隣のジョン・ヘイル牧師を招聘して悪魔払いが行われたが、失敗した。その少女らは、12歳の娘アン・パットナム、17歳のマーシー・ルイス、アンの親友で17歳のメアリー・ウォルコット、メアリー・ウォーレン、スザンナ・シェルドンらだった。中でも、アンはセイラムで最も実力がある一家の娘であり、アンの両親が娘の主張を支持したことが、追及の大きな弾みとなった[4]。サミュエルが娘たちを詰問したところ、娘たちは村内での立場の弱かったティテュバ、サラ・グッド、サラ・オズボーン3名の名前を上げた。 この告発は、ウィリアム・グリッグスの協力を得た、10代の少女たち、特にエリザベス・ハバードによって始められた[5]。
経過「セイラム魔女裁判の年表」も参照
発端
裁判の始まり