セイム_(ポーランド・リトアニア共和国)
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ジグムント3世時代(1587年?1632年)のセイムアウグスト2世時代(1694年?1733年)のセイム

ポーランド・リトアニア共和国における全国議会としてのセイムまたは大セイム、一般セイム(ポーランド語: sejm walny)は、16世紀後半から18世紀末まで行われた両院制議会であった。1569年のルブリン合同により、ポーランド王国のセイム(ポーランド語: sejm)とリトアニア大公国ルテニアサモギティアのセイマス(リトアニア語: seimas)が融合して誕生し、黄金の自由として知られる共和国の特異な合議政体の軸となった。セイムは強大な立法権を有しており、国王と言えどセイムの賛同無しに法を制定することができなかった。

セイムが開催される期間や周期は年代によって変化したが、2年ごとに6週間行われるのが一般的だった。開催場所にも変化があったが、最終的に首都ワルシャワが主な開催地として定まっていった。議員数は当初上院が70人、下院が50人であったが、18世紀にはそれぞれ150人と200人にまで増えた。採決方式は当初ほとんど多数決だったと考えられているが、17世紀初頭から全会一致が求められるようになった。これはもともと全国の合意を図るための制度だったが、次第に法の制定に反対する議員によって悪用されるようになり、18世紀前半を中心に32回ものセイムが悪名高い「自由拒否権」の行使によって合意に至れず終わった。この全議員が単独で拒否権を発動できるとする仕組みは、共和国の国政をまったく麻痺させてしまった。

また通常のセイムの他にも、選挙王制が確立された1573年以降には、国王死後の空位期間に国王選挙を行う過程で、投票者の招集、選挙、戴冠のためにそれぞれ特別セイムが開かれた。これらを含めると、1569年から1793年までに全部で173回のセイムが開催された[1]
語源

全国議会にあたるセイムや地方議会にあたるセイミク(ポーランド語: sejmik)は、古チェコ語のsejmovat,(呼び集める、招集する)が語源である[2]。セイム・ヴァルヌィ(sejm walny)という呼称における「ヴァルヌィ」は英語ではgeneral[3]、full[4]、ordinary[5]などと訳され、日本語では「大セイム」と訳されることが多いが、ポーランド・リトアニア共和国末期に開かれた四年セイム(Sejm Czteroletni)の別称Sejm Wielkiも「大セイム」と訳せるため注意が必要である。
起源カジミェシュ3世時代のヴィエツ(14世紀)

1569年のルブリン合同に伴い、ポーランド王国のセイムとリトアニア大公国のセイマスが統合されてポーランド・リトアニア共和国のセイムが誕生した。両国には合議制の元で立法を行う伝統があり、それはさらに遡ればスラヴ人の集会ヴィエツ(ヴェーチェ)に起源をもつ[6]。またポーランドでは国王も選挙で選ばれており、それゆえ王の生前に跡継ぎが決定されたり、王が指名した跡継ぎが明確な王位継承権を持ったりすることもなかった[7]。このように議会の権限が大きくなるにつれて、シュラフタ(貴族階級)の特権も徐々に拡大していった。特に王位が別の王朝にわたるときには、シュラフタは1374年のコシツェの特許状のように大幅な特権付与を王に要求したのである[8]。ポーランドのセイムの歴史について、歴史家のユリウシュ・バルダフは15世紀前半の全国集会を起源としている[9]が、ヤツェク・イェンドルフは初めて両院制の議会が開かれた1493年のセイムを最初とする説を提唱している[10][11]。さらにジーン・W・セドラーは、1493年のセイムは単に明確な両院制の記録が残っているものとしては最古であるだけで、実際にはより古い時代から両院制度が存在していた可能性を指摘している[8]

リトアニア大公国で多数の貴族が集結した議会・集会としては、1398年のサリナス条約締結時と1413年のホロドウォ合同時などが挙げられる。1445年にフロドナで行われたカジミェシュ4世とリトアニア領主評議会の間での交渉が、リトアニアで最初に開かれたセイマスとされている。その後リトアニアは1492年から1582年の長期にわたり断続的にモスクワ大公国との戦争を続けており、軍を維持するために税収増を図ったリトアニア大公たちは頻繁にセイマスを開催した。貴族たちは大公に協力する見返りとして、セイマスの権限強化など様々な特権を獲得した。初期のセイマスは単に国内外の問題や税制、戦争、一部の予算について議論する場であったが、16世紀に入ると一部の立法権を有するようになった。セイマスは何らかの法を制定するよう大公に請願することができた[12]
政治的影響力ヘンリク・ヴァレジを選出した最初の国王自由選挙(1573年)

セイムの権限は極めて大きく、国王の権力に厳しい制限をかけた。

これはルブリン合同前か強い権力を握っていたポーランド王国のセイムの特徴を受け継いだものと言える。1505年のニヒル・ノヴィ成立以降、ポーランド国王はセイムの承認なく立法することができなくなった[13]。ニヒル・ノヴィの条文には、法の制定には国王、上院、下院というセイム内の三階級の同意が必要であると記されている[13]。国王がセイムの承認なしに法令を出せるのは、王の直轄都市、王領の農民、ユダヤ人、鉱山といった限られた分野に対してのみとなった[13]。セイムを構成する三階級は、租税、予算、国家財政(軍事費を含む)、外交(外国使節の受け入れや大使派遣を含む)、貴族叙任について最終判断を下した[9][13]。またセイムは財務大臣(ポトスカルビ podskarbi)から年度報告を受けたり、重大な裁判について議論したりし、恩赦恩降の権限も持っていた[13]。さらにセイムは国王不在時に法律を制定する権限も有していたが、これについては国王の事後承諾を要した[9]

1791年に採択された5月3日憲法によって、上院議員の拒否権は制限された。下院の立法権も制限され、国王が上院議員、大臣、その他の役職の任命権を握り、上院の進行を務め、法の守護者(ストラシュ・プラフ Stra? Praw)と呼ばれる新たな行政機関と共に新法を提出することができるようになった[14]。セイムは大臣やその他の役職者が責任を負う監督機関となった[14]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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