セイバル
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この項目では、マヤ遺跡について説明しています。ヤシについては「サバル」をご覧ください。
マヤ遺跡マップ

セイバル(: Seibal, 西: Ceibal)は、グアテマラペテン県パシオン川西岸の急峻な断崖の丘陵上に位置するマヤ遺跡である。先古典期中期初頭から古典期終末まで、盛衰を繰り返した。この遺跡の名前は、本来「セイバ(Ceiba)の木のある場所」という意味の現地スペイン語で Ceibal と綴られていたが、後述するような理由で Seibal と綴られることが多くなっている。また、少なくとも55基に及ぶ石製記念碑が確認されており、そのうち21基が石彫の状態がよいことで早くから注目されてきた[1]。セイバルの中心部は、1平方キロにわたっていくつかの丘陵上に築かれ、大きく3つに分けられ西側からA,C,Dと名づけられている。最盛期となった古典期終末(バヤル相)の人口は、ハーバード大学の調査隊による家屋の存在を示すマウンドの数や濃度などによって1万人に達したであろうと推計されている[2]
遺跡の構造、主要な遺構の配置

[3]

セイバルは、パシオン川西岸の階段状で急峻な断崖の丘陵上にあり、まず川から50mほどあがったところに踊り場状の地形が、さらに30 - 40mほどの比高差でグループDの建造物群がぎっちりと築かれた丘がある。グループDの丘は、東西約200m、南北約400mほどの楕円形に近い形で、北側に比高差30 - 40mの深い谷、南側に10 - 20mの谷があり、さながら天然の要害である。

グループAからグループDまでの建造物群はそれぞれ「堤道」と呼ばれる通路で結ばれていて、グループDからグループAに向かって堤道Iを西側にいくと、10m未満の比較的浅い谷をへだててグループCがある。グループCの建造物はもっとも小規模で、マヤ独特の長方形の建物が中庭を囲む小グループが広い範囲で散在的に分布している状況がみられる。A、Dグループの個々の建造物が「構築物」(Structure)A-何某ないしD-何某と呼ばれるのとは異なり、この小グループは、「ユニット」(Unit)C-何某という番号でしばしば呼ばれる。

グループCで南側に堤道が分岐し、南側にのびる堤道(堤道II)を分岐点から南方150mほどいくと東西約70m・南北約31mの球戯場(構築物C-9)が堤道IIの西側に接している。分岐点から南に500mほどの地点には、古典期終末段階の中央高原の影響を受けたと思われる円形状プランをもつピラミッド(構築物C-79)がある。

グループDから堤道Iとその延長である堤道IIIを西方450mほど行くとグループAに至る。グループAは3つのプラザをもち、「中央プラザ」は南北200m・東西100mほどで、北東にピラミッドA-18、東側に「神聖文字の階段」、西側にA-19と呼ばれる小球戯場と南西にA-20と呼ばれるピラミッドに囲まれている。「中央プラザ」の南側に「南プラザ」があり、その西側に、南北70m・東西60m、プラザからの高さ18.5mのセイバル最大の建造物A-24があり、「南プラザ」の中央部には古典期終末期にあたる10バクトゥンの長期暦の日付と、「メキシコ中央高原」風の人物像が刻まれていることで知られる著名な石碑群をかかえる建造物A-3がある。
主な研究史、調査史

[4]

1892年にグアテマラ政府によって、フェデリコ・アルテス (Fedrico Artes) が、シカゴ万博博覧会のグアテマラ・ブースに出品する目的で、マヤの石碑の型どりを行うためにペテンのマヤ遺跡の踏査を行ったのが本格的な学術調査のはじまりであった。アルテスは、アルフレッド・モーズレー(Alfred Maudslay)の下で型どりの技術を習得したゴルゴニオ・ロペス(Gorgonio Lopez)とセイバルの状況に詳しい地元ガイドのエウセビオ・カノ(Eusebio Cano)をつれてフローレスからサヤスチェ経由で、遺跡の目前で遺跡名の通称となっているセイバの木の近くを通ってセイバルに訪れた。5 - 6本ほどの石彫で型どりを行い、翌年グアテマラシティにある新聞社「エル・グアテマラティコ」誌(El Guatemalateco)に持ち込んで、記事を掲載した。ところで、アルテスは、元々の通称であった「セイバの木のあるところ」という意味の "Ceibal" という名前について、この素晴らしい遺跡にふさわしくないと考えていた。それで、別のよい名前はないかとカノに相談したところ、セイバル近辺に生息する鳥の名を使用したらどうかと提案したのが採用され、シカゴ万博では、セイバルではなく "Saxtanquiqui" という遺跡名で石彫のレプリカが型から起こされ展示された。

1895年7月、ハーバード大学ピーボディ博物館の助手であったテオベルト・マーラー(Teobert Maler)がカノと共にセイバルを訪れ、グループAの地図を作製し、同グループの石碑のクリーニングを行い、写真撮影を行った。マーラーは1896年にドイツ語による報告書を刊行した。1905年にもマーラーはセイバルの踏査を行い、自らが作成した地図に部分的に修正を加えた。1906年に刊行した英語の報告書では "Seibal" の綴りを使ったため、英語圏の研究者は "Seibal" の綴りを使うようになった。1908年に訪れた時には、石碑について1番から11番までの番号をつけ、克明に写真撮影を行うとともに詳細な記述を行った。マーラーは、破片になっている石碑についても、無文のものと何かが刻まれているものとに分類を行い、表採した遺物についても記述している。

1914年1915年に、ハーバード・スピンデン(Harbert Spinden)とシルベヌス・モーレイ(Sylvanus G.Morley)が踏査を行って、建造物群のまとまりにグループA、B、C、Dと名称をつけた。モーレイは、グループA「中央プラザ」の構築物A-14の西側正面にある「象形文字の階段」及びグループDの南方2kmにある一組のプラザをもつ小規模な建造群であるグループBの遺構群を確認し、その際石碑12号を発見した。またモーレイは、銘文が良好に残った8号から11号に刻まれた長期暦の日付を9.14.10.0.0.から10.2.0.0.0.であることを読み取り、セイバルが、古典期終末期のセンターであったことを明らかにした。現在では、セイバルの中心部分について言及する場合は、グループA、C、Dの名称のみが使われる傾向にある。

1948年、バーナム・ブラウン (Barnum Brown) が訪れ、13号石碑を発見した。

1961年が明けると、ジョン・グラハムとテモセイ・フィスク(Timothy Fiske)がアルタル・デ・サクリフィシオスにキャンプを設営した際に、セイバルにも訪れている。グラハムらは、マーラーやモーレイの地図に載っていないマウンドや、14 - 16号石碑を発見したほか、いくつかの建築グループがマヤの他の祭祀センターに見られるような「堤道」で結ばれていること、そしてその「堤道」が交差して、グループCの北端で途切れていることを発見した。グラハムは、同じ年の乾季にリチャード・アダムスと再びセイバルを訪れ、新たに17号、18号石碑を発見した。アダムスは、グループAの詳細な地図を作製するとともに、6地点の試掘(テストピット)調査を行い、土器のサンプルと土層サンプルの採取を行った。アダムスは、このテストピットによる採取したサンプルからセイバルの先古典期中期から古典期後期後半にまで及ぶおおよその土器編年の把握に成功した。

1964年から1968年まで、ゴードン・R・ウィリー (Gordon R.Willey) の率いるハーバード大学の調査隊が本格的かつ集中的な踏査および図化と発掘調査を行った。現在この遺跡について知られる知見はこのときの調査によるもので、セイバルが先古典期中期初頭から古典期終末まで盛衰を繰り返したことが明らかにされた。このときの調査の報告書は、1970年代から順次刊行され、1975年にジェレミー・サブロフによる土器に関するもの[5]、1982年にレディヤード・スミスによる建造物と「供納穴[注 1]」に関するもの[7]とサブロフらによる良質(精胎土)オレンジ土器に関する分析を掲載したもの[8]、1990年にジョン・グラハムによる石碑と記念碑に関するもの[9]およびゲアー・トゥアーテロによる埋葬に関するもの[10]などが順次刊行されている。

その後、アリゾナ大学猪俣健を団長とする多国籍で学際的な調査隊によってハーバード大学調査隊では行われなかった排土をふるいにかけて微細な遺物を把握することまでめざしたきめこまかな調査が2005年から行われている[11]。この調査では、セイバル最大のピラミッドA-24の基壇の調査で先古典期中期前半のレアル(Real)相の実態がより明らかになったことで早くも注目されている。
セイバルの編年および歴史

[12]主なマヤ遺跡の編年表
先古典期中期前半(レアル相)

セイバルに人が住み始めたのは、紀元前900年[注 2]ころの先古典期中期初頭と考えられ、セイバルの編年では、先古典期中期前半は、レアル相と呼ばれ、アルタル・デ・サクリフィシオスと類似のシェー(Xe)式土器が出土する。マイケル・コウは、「マヤ高地」からラカントゥン水系沿いに伝わったと考え、チャパス州高地で同時期にみられる硬質の白色土器との関連を想定するが[13]、ウィリーズ・アンドリュース5世は、この時期の土器はチャパス州起源の集団がパシオン川流域に移り住んで、セイバルやアルタル・デ・サクリフィシオスの最古の集落を営むようになったのではないかと考えている。レアル相の遺構は、グループAに主に見られる。グループAの「中央プラザ」で検出された「供納穴」(Cache)7号で、ひすい製の儀礼用石斧が6本十字状にならべられているのが確認された[7]。これは、タバスコ州にある同時期のオルメカのセンターであったラ・ベンタにもみられるもので、5点のレアル相の土器と放血儀礼 (Bloodletting) に用いられた穴あけ用の道具が1点、炭化物も伴っていた。炭化物の放射性炭素年代測定を行ったところ、紀元前900年ごろという測定値が得られた。

1960年代半ばに行われたハーバード大学の調査では、この「供納穴」が検出されたほかは、この時期は小規模な集落の家屋のマウンドが散在していてシェ式土器はそれに伴うものとして考えられてきた。


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