ズールー戦争
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ズールー戦争
Anglo-Zulu War

時1879年1月11日-7月4日
場所南アフリカ
結果イギリスの勝利、
ズールー王国の独立喪失

衝突した勢力
イギリス帝国ズールー王国
指揮官
ヴィクトリア女王
ビーコンズフィールド伯爵(ディズレーリ)
ヘンリー・バートル・フレア(英語版)
チェルムスフォード男爵
ガーネット・ウルズリー(英語版)セテワヨ・カムパンデ
ニッシングワヨ・カマホール・コンザ
ダビュラメンズィ・カンパンデ
戦力

第一次侵攻:
15,000-16,000:[1]


ヨーロッパ兵6,600

アフリカ兵9,000

火砲17門
ガトリング砲 1門
ロケット砲中隊 1 個
第二次侵攻:
25,000:[2]


ヨーロッパ兵16,000

ナタール原住民兵7,000

輜重用務民間人2,000-3,000
35,000[3]
被害者数
戦死1,727
負傷256戦死10,500以上

ズールー戦争(ズールーせんそう、英語:Anglo-Zulu War)は、1879年イギリス帝国南部アフリカズールー王国との間で戦われた戦争である。この戦争は幾つかの血生臭い戦闘と、南アフリカにおける植民地支配の画期となったことで有名である。英植民地当局の思惑により、本国政府の意向から離れて開戦したものの、英国軍は緒戦のイサンドルワナの戦い(英語版)で、槍と盾が主兵装で火器をほとんど持たないズールー軍に大敗を喫して思わぬ苦戦を強いられた。その後、帝国各地から大規模な増援部隊が送り込まれ、ウルンディの戦い(英語版)では近代兵器を用いた英軍が王都ウルンディを陥落させ勝利した。戦争の結果、ズールー国家の独立は失われた。
背景
ズールー王国の勃興ズールー王国が存在した南アフリカ共和国クワズール・ナタール州の地図

ズールー王国は現在の南アフリカ共和国クワズール・ナタール州に住むバントゥー語系民族の国だった。19世紀の初めに偉大なズールー族の王シャカによって建国され、革新的な軍事システムを導入した。

1817年から1819年にかけてのズールー内戦(英語版)では、en:Zwide kaLanga率いるen:Ndwandwe王国を破った。

1822年、シャカ王率いるズールー人は、クワズール・ナタール州に住んでいたンデベレ人(英語版)(古くは英国人から: Matabeleと呼ばれた)を攻撃し(ムフェカネ(英語版)、大壊乱)、ンデベレ人は、現在のトランスヴァール中央部やプレトリア近辺に北遷した。

シャカは周囲の部族を征服し、ズールー王国の領域はトゥゲラ川(英語版)からポンゴラ川(英語版)まで広がっていた。1828年に暴君となったシャカは暗殺され、暗殺者の一人であった弟ディンガネ・カセンザンガコナ(英語版)が王となった。
ボーア人のグレート・トレック詳細は「グレート・トレック」を参照

この頃、英領ケープ植民地ではボーア人オランダ系植民者)が英国の統治を嫌い集団で北上を始めた。1835年から始まったこのグレート・トレック(内陸大移動)で、ボーア人たちの集団は入植地を求め、原住諸部族と衝突を繰り返した。1838年2月17日、ウィーネンの虐殺(英語版)でディンガネは、フォールトレッカーズ(英語版)(アフリカーンス語: Voortrekkers)のピート・レティーフ(英語版)を始めとする250人のボーア人を虐殺した。12月16日、フォールトレッカーズは、ブラッド・リバーの戦い(英語版)でズールー族を撃破し、この地にナタール共和国を建国した。戦いに敗れたディンガネ王は威信を失い1840年に退位させられ、ムパンデ・カセンザンガコナ(英語版)が即位する。

一方、英国はボーア人の独立を許さず、ナタール共和国へ軍を送り1845年にこれをケープ植民地に併合した。不満を持ったボーア人たちは北東へ移動し1852年ヴァール川以北にトランスヴァール共和国(南アフリカ共和国)を建国する。オレンジ川以北にもオレンジ自由国が建国された。費用の掛かる内陸奥地の統治を嫌った英国政府はこれを承認した。

1856年、ズールー王国ではムパンデ王の息子ムブヤジとセテワヨが内戦を起こし、セテワヨが勝利して正式な王位継承者となった。1872年にムパンデ王が崩御しセテワヨが即位する。

ズールー国王となったセテワヨは彼の叔父シャカの戦術を可能な限り復活させ、更には幾つかの部隊に銃器を装備もさせた[4]。彼はトランスヴァール共和国との紛争中にトランスカイのコサ族に反乱を起こさせ、セククニを援助したと信じられている。

セテワヨはナタール原住民問題担当長官テオフィルス・シェプストン(英語版)と親交があり、英国との関係は比較的平穏だったが、ヨーロッパからやって来る宣教師たちの活動はセテワヨにとっては不愉快なものだった。彼は宣教師たちには危害を加えなかったが、幾人かの改宗者を殺害している。宣教師たちは英国とズールーの敵対の原因の一つだった[5]。例えば、スフリューダー司教はセテワヨについて「有能な男だが、冷酷で自尊心が強く、残忍で不誠実である。これまでの王の中で最悪だ」と述べている。
大英帝国の拡大バートル・フレアセテワヨ・カムパンデ

1874年、成功裏にカナダ連邦を成立させたカーナーヴォン伯爵植民相は同様の枠組みを南アフリカにおいても実施しようとしていた。この計画のためにバートル・フレア(英語版)が高等弁務官として南アフリカへ送られた。この計画の障害の一つが独立した国家であるトランスヴァール共和国とズールー王国の存在だった。

1876年9月、ズールー王国での女子の大量虐殺(原因は年配の連隊戦士たちと結婚せよとのセテワヨの命令に反して同年代の男たちと結婚したことだった)に対してナタール行政府は強い抗議を行うが、現地行政府は管轄のアフリカ諸国の問題に対して横柄な態度を取る傾向があった。セテワヨとトランスヴァール共和国との国境問題も続いていた。セテワヨの友人だったナタール原住民問題担当長官テオフィルス・シェプストンは国境問題で彼を支持していた。1877年に彼は小部隊を率いてトランスヴァールへ赴きボーア人たちに独立を放棄するよう説得、これに応じたトランスヴァールは大英帝国に併合された。トランスヴァールの行政官となったシェプストンは立場を変えボーア側の利益に立って国境問題に当たるようになった。彼はズールー王国こそ英国の脅威であると高等弁務官へ報告している[6]

フレアはズールーとの戦争は連邦化のために必要不可欠であると考え、南アフリカ最高司令官第2代チェルムスフォード男爵フレデリック・セシジャー中将もこれに同意していた。だが、1878年にカーナーボンに代わって植民相となったサー・マイケル・ヒックス・ビーチ准男爵はズールーとの紛争は交渉によって解決すべきと考えていた。これは当時、英軍が第二次アフガン戦争を戦っていた事情にもよる。植民省にとってはインドに隣接するアフガニスタンの方が南アフリカよりも重要だった。
最後通牒

1878年2月、トランスヴァールとズールー王国との国境問題について報告する委員会がナタール総督ヘンリー・ブルワー(英語版)によって任命された。


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