ズルフィカール・ハーン(ウルドゥー語:?? ?????? ??? ???? ???, Zulfiqar Khan, 1657年 - 1713年2月11日)は、北インド、ムガル帝国の政治家・武将。カルナータカ太守、デカン総督
、財務大臣、宰相でもある。ヌスラト・ジャング(Nusrat Jung)の名でも知られる。時期は不明だが、アーサフ・ハーンの息子シャーイスタ・ハーンの娘と結婚した。
カルナータカ太守及びデカン総督への任命アウラングゼーブ
1681年以降、皇帝アウラングゼーブがデカン地方へ長期遠征を行うと(デカン戦争)、ズルフィカール・ハーンもこれに参加し、ビジャープル包囲戦やゴールコンダ包囲戦に参加した。
また1689年3月、マラーター王サンバージーの処刑後、ズルフィカール・ハーンはヤークト・ハーンとともにマラーター王国の首都ラーイガドを包囲し、同年10月19日までにこの地を占拠した。このとき、サンバージーの息子シャーフーを捕えることに成功した。
だが、サンバージーの弟でマラーター王のラージャーラームがラーイガドを脱出し、同年11月に南インドのシェンジに逃れた。ズルフィカール・ハーンはこれを追い、翌1690年4月にパンハーラーを落としたのち、このシェンジを包囲し、籠城するマラーター軍と戦った(シェンジ包囲戦)。
1692年4月、ズルフィカール・ハーンはアウラングゼーブの命により、南インドを統治するために新設されたカルナータカ太守に任命された。その首府はシェンジからさほど遠くないアルコット(アールッカードゥ)におかれたが、ズルフィカール・ハーンはシェンジで包囲の指揮をとった。
その後、マドゥライ・ナーヤカ朝やタンジャーヴール・マラーター王国などの妨害を受けながらも、1698年1月にようやくシェンジを陥落させた。シェンジの支配はラージプートのスワループ・シングに任せられた。だが、ラージャーラームは逃げ、デカン地方のサーターラーへと行き、そこを王都とした。
ズルフィカール・ハーンは引き続き太守の地位にあったが、1703年にダーウード・ハーン・パンニーと交代させられ、デカン総督となった。ズルフィカール・ハーンはダナージー・ジャーダヴといったマラーター側の将軍と戦い、1704年にはワーギーンゲーラー包囲戦に参加した。
1707年3月、アウラングゼーブが死亡して帝国軍が引き返したのちも、ズルフィカール・ハーンはデカン総督の地位にあったが、1710年にダーウード・ハーン・パンニーと交代させられ、デリーへと戻った。だが、ダーウード・ハーンは彼の代理人のような役割を果たした。
宰相任命・帝国の改革ジャハーンダール・シャー
1712年2月、帝国の皇帝バハードゥル・シャー1世が死亡したのち、4人の息子らの間で帝位をめぐって争いが起きたが、ズルフィカール・ハーンは長子ジャハーンダール・シャーを支援した[1]。ベンガル太守のアズィーム・ウッシャーンが最有力候補であったにもかかわらず、兄弟の中で一番出来の悪かったジャハーンダール・シャーが皇帝になれたのは、当時最も有力であった貴族の彼が支援したからである[1][2]。
ズルフィカール・ハーンはこの功績により、帝国の宰相と財務大臣に任命された[2][1]。また、彼は敗者の側についた多数の貴族を財産没収にするかあるいは処刑し、宮廷での自身の立場を確保したのち、帝国のために奔走した[2][1]。
全権を握ったズルフィカール・ハーンはバハードゥル・シャー1世の治世から悪化の一途をたどっていた財政の改善など、内政面・外政面における帝国の改革に着手した。彼はラージプートやマラーターなどヒンドゥーと友好的な関係を築き、ヒンドゥーを懐柔することが自身の立場を安定させ、ひいては帝国を救済すると信じた[1]。1681年にアウラングゼーブが復活したジズヤは、この年になってようやく廃止された[1]。
ラージプートの間では、マールワール王アジート・シングをグジャラート太守に、アンベール王ジャイ・シング2世はマールワー太守に任命した[1]。