ズデーテン地方
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黄緑色の地域がズデーテン地方。

ズデーテン地方(チェコ語スロバキア語: Sudety、ドイツ語: Sudetenland ズデーテンラント、ポーランド語: Kraj Sudetow)は、ボヘミアモラヴィアシレジア(現在のチェコ共和国の領域)の外縁部にあたる、ドイツ人が多く居住していた区域。チェコスロバキアでは国境地帯(チェコ語: Pohrani?i)とも呼ばれる。北西部のエーガーラント(英語版)、北東部のズデーテン(: Sudeten)、南部のベーマーヴァルトガウ(英語版)(: Bohmerwaldgau)とツナイム: Znaim)で構成される。本来のズデーテンは北モラヴィアのズデーテン山地付近を指す呼称であったが、コンラート・ヘンラインの運動により、チェコのドイツ人居住区域を指すようになった[1]

オーストリア=ハンガリー帝国の一部であったが、第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約サン=ジェルマン条約によってチェコスロバキアの一部となった。しかしこの地域をめぐってナチス・ドイツとチェコスロバキアが対立し、ミュンヘン協定によってドイツへの編入が認められた。第二次世界大戦後は再びチェコスロバキアに復帰し、現在はチェコ領となる。
歴史
第一次世界大戦以前1911年時点でのオーストリア=ハンガリー帝国の人種分布図。赤がドイツ人、青がチェコ人、緑がマジャール人が優勢な地域

ボヘミア・モラビアに建設されたチェコ人国家は、西方からのドイツ人移民(東方植民)を積極的に受け入れたため、次第にドイツ人の居住が増加していった[2]。しかし三十年戦争によってチェコ人貴族が敗れ、ボヘミアにおけるドイツ人の支配権が確立されると、ドイツ人とチェコ人の間には対立関係が生まれた[2]アウスグライヒ以降はチェコ人もハンガリーと同様の権利を望み、一時はオーストリア=ハンガリー=ボヘミアの三重帝国が成立する可能性もあったが、ドイツ人とマジャール人(ハンガリー)の反対によって潰えた。

1880年にはチェコ人の帝国宰相エドゥアルト・ターフェがシュトレマイヤー言語令(ターフェ言語令)を出し、ドイツ人とチェコ人の言語的平等を定めたが、既得権を侵されると感じたドイツ人とチェコ人の対立はますます激化した。1897年にはカジミール・フェリクス・バデーニによる、ボヘミアとモラビアの官吏ドイツ語チェコ語両方の習得を義務づけたバデーニ言語令が発せられると、帝国内のドイツ人がいっせいに反発・暴動を起こした。1899年にバデーニ言語令は正式に撤回されたが、今度はチェコ人の暴動が頻発した[3]
分離運動の失敗ドイツ=オーストリア共和国が設定した州。■がズデーテンラント州、■がドイツボヘミア州、■がオーバーエスターライヒ州

第一次世界大戦で連合国側で戦い、チェコスロバキアの成立を目指していたエドヴァルド・ベネシュらが率いるチェコスロバキア独立派は、戦後の国土として「ボヘミア王冠領(聖ヴァーツラフの王冠諸邦)」であるボヘミア・モラヴィア・シレジアの領域を要求していた。しかし彼の地のドイツ人はドイツないしはオーストリアの内部に留まることを要求。1917年9月16日にはこの地域の社会民主労働党が分離の動きに反対する集会を行った[4]

1918年10月28日に国内のチェコスロバキア独立派が独立宣言を行うと、翌10月29日にはドイツ人帝国議会議員が中心として、エーガラントと北ボヘミアに「ドイツ系ボヘミア州(ドイツ語版、チェコ語版、英語版)」の成立を宣言。さらに10月30日にはシレジア、北モラヴィア、東部ボヘミアに「ズデーテンラント州(ドイツ語版、チェコ語版、英語版)」が形成され、11月には南部ボヘミアと南部モラビアでベーマーヴァルトガウとツナイム(Zneim、en)の両自治政府が建設された[5]。これらドイツ系諸政府は地域の正式な確定が行われるまで、チェコスロバキア政府との間で行政に関する暫定協定を結ぼうとしたが、チェコスロバキア側は「反逆者とは交渉しない」とこれを拒否した[5]。11月20日にはチェコ軍団がドイツ系諸政府域への侵攻を開始し、12月18日までにドイツ系諸政府は解体・亡命を余儀なくされた。一方で1918年11月に成立したドイツ=オーストリア共和国政府は、ドイツ系地域をドイツボヘミア州(de:Deutschbohmen und Deutschmahrer)、ズデーテンラント州(ドイツ語版)、オーバーエスターライヒ州に区分し、領有権を主張していた。

パリ講和会議が始まるとオーストリア政府はドイツ人居住地域のチェコスロバキアへの編入に反対し、もし行う場合でも住民投票を行うよう要求した。一方でチェコスロバキア政府も実効支配の追認を要求した[5]アメリカ民族自決の観点からドイツへの編入を主張したが、安全保障の観点からチェコスロバキアの強化を狙うフランスの要求が通り、ドイツ人居住地域はチェコスロバキアの領土となることが確定した[6]。こうして310万におよぶドイツ人はチェコスロバキアにおける「最大の少数民族」となった[7]。しかしサン=ジェルマン条約と同じ日にチェコスロバキア政府と連合国の間で、チェコスロバキア国内の民族平等を定めた「少数民族保護条約」が締結され、ドイツ人を含めた諸民族の権利保護が求められた[8]
チェコスロバキア時代

ドイツ人居住域は正式なチェコスロバキア領となり、北東部のKrkono?sko-jesenicka subprovincieなどが設置された。

1920年9月20日、チェコスロバキア政府は憲法の不可分の構成部分として言語法を定めた。これはチェコ語とスロバキア語を同一のものとする「チェコスロバキア語」を唯一の公用語とし、ドイツ語が公的機関などで使えるのは住民の20%以上がドイツ語を話す地域に限られた。またチェコ人がほとんどいない地域にもチェコ語の地名表記が行われるようになったほか、ドイツ人学校は次々に閉鎖へと追い込まれた。これらの政策は二重帝国時代から見ても後退であり、チェコスロバキア共和国ドイツ人社会民主党(英語版)などのドイツ人諸政党はこぞって反対した[9]。しかしチェコ人も「われわれのドイツ人 (na?i N?mci)」とドイツ人を呼ぶようになり、一般の住民同士の関係は比較的良好であった[1]。一方でチェコスロバキア政府はドイツを警戒して強固な要塞線を築いていた。

世界恐慌が発生すると、ドイツ人居住域の状況は深刻なものになった。この地域の産業は鉱山・ガラス・製陶・繊維など輸出頼りであり、零細企業が多かったため、失業者の割合も他の地域の2倍以上に達した。さらにドイツ人よりチェコ人の雇用が優先されているとして、ドイツ人の間でチェコ人に対する不満が高まった[10]。さらに隣国ドイツにおけるヒトラー政権下の経済回復が、ドイツ民族の民族共同体を目指すという、非民主的なコンラート・ヘンライン率いる「ズデーテン・郷土戦線」の勢力拡大につながった。1935年に郷土戦線はズデーテン・ドイツ人党と改称し、同年の選挙で最多得票を獲得し、第2党となったが政府には参加しなかった。1937年9月16日にミラン・ホジャ首相とヘンラインの会談が行われ、ヘンラインは将来における自治権と、それに至るまでの「自決権」を要求した。しかし10月18日にズデーテン・ドイツ人の集会が禁止され、同党幹部カール・ヘルマン・フランクらが警察による暴行を受けるという事件が発生した[11]


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