ズデニェク・フィビフ
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ズデニェク・フィビフ
Zden?k Fibich

基本情報
出生名Zden?k Fibich
生誕1850年12月21日
オーストリア帝国・フシェボジツェ村
死没 (1900-10-15) 1900年10月15日(49歳没)
オーストリア=ハンガリー帝国
プラハ
ジャンル国民楽派
職業作曲家
オルガニスト
音楽教師
音楽監督
担当楽器オルガン
活動期間1864年 - 1900年
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ズデニェク・フィビフ(Zden?k Fibich チェコ語発音: [?zd???k ?f?b?x], 1850年12月21日 - 1900年10月15日)は、チェコ作曲家
はじめに

日本では「フィビヒ」ないし「フィービヒ」の発音及び表記が一般的になりつつあるが、"Fibich" の "ch" の発音は、チェコ語では無声音でしかも ach-Laut([x]) であり、「フ」又は「ク」に近い(但し、それでも耳慣れない日本人には「ヒ」に近い音として聞こえるかも知れないが)。本稿では、チェコ語での発音を尊重し、更には他の記事との表記統一を図る為、日本語表記は、「フィビヒ」ではなく「フィビフ」で統一する。 尚、「フィービヒ」の様に長音を加えた表記は誤りである(長音とした場合、綴りは "Fibich" ではなく "Fibich"になってしまう)。

但し、この当時Fibichが生きたボヘミア地方はオーストリア帝国の支配下にあり、公用語がチェコ語ではなくドイツ語であったこと、Fibcih自身が貴族に仕える家に生まれ、更に母親もウィーン出身であったことなどを考え合わせると、自身がドイツ語風に「フィビヒ」と発音していた可能性は有り得る。このことについては調査が必要であろう。

ズデニェク・フィビフは、スメタナドヴォルザークと共に、チェコ国民楽派の草創期を築いた作曲家。チェコ民族独立の気運が胎動する時代にあって、スメタナやドヴォジャーク同様、チェコ民謡や民族舞曲のリズムを自作に取り入れた他、チェコ民族の伝説によるオペラを作曲するなど、その作品は民族的な素材によるものが少なくない。作曲技法の面では明らかにドイツ・ロマン派の系統にありながら、チェコ国民楽派として扱われるのは、このような彼の志向によるものである。当時、ドヴォジャークやヤナーチェクのように、音楽修業時代に満足にピアノに触れることもできなかった作曲家も居たが、フィビフはその点、幼少時代から非常に恵まれた環境で音楽を学び育った。

音楽修業を終えてからも楽壇の要職に就くことはなく、生涯にわたり、主に作曲と教師、音楽監督などの職で生計を立てた。

当時のチェコ楽壇は、同じ国民楽派とはいえ、スメタナの進歩派と、ドヴォジャークを擁するプヴォタの保守派に二分されていた。フィビフは、音楽上の立場としてはスメタナの側に立っていたこともあり、当時はスメタナの正統な後継者として目されていた。
生涯
誕生?音楽修業時代

1850年12月21日 当時オーストリア帝国の支配下にあったボヘミア地方のフシェボジツェ村(V?ebo?ice)に生まれる。洗礼名はZdenko。父親Janはチェコの貴族アウエルスペルク伯Auerspergに仕える森林管理官、母親Marieはドイツ語を話すウィーン出身の女性だった。

1859年-1862年 ヘルマンのハウプトシューレに在籍。フィビフにとって初めての音楽教育となる、母親からのピアノの手ほどきは1859年から始まっている。

1862年-1863年 ギムナジウムに通った。

1863年-1865年 プラハのチェコ・ギムナジウムに通う。フランティシェク・チェルニー(チェコ語版)(フランティシェク・チェルニー)(ピアノの練習曲を書いた、ベートーヴェンの著名な弟子とは別人))の勧めにより、最初の作曲に取り組んでいる。

1864年 スメタナの強い後押しにより、聖イグナツ教会のオルガニストに就任。

1864年-1865年 ジークムント・コレショフスキー(チェコ語版)(ジークムント・コレショフスキー) の私設音楽学校に通う。


1865年4月12日 自作の最初のホ短調交響曲を、自身の指揮で初演(Slavoj協会コンサート)。但しこの交響曲には、交響曲としての番号も、作品番号も与えられていない。

ライプツィヒ音楽院に入学。ピアノをイグナーツ・モシェレス和声リヒターに学んだ。また同時に、ヤダスゾーンから対位法をプライベートレッスンで学んだ。


独立・結婚

1867年 パリでピアノ教師をしながら、かねて関心を抱いていた彫刻や絵画を学んだ。

1870年 マンハイムで最後の音楽修業を終えるとチェコに戻り、両親と共にジャーキー村に移り住んでいる。

1873年 製粉所の娘、ルージェナ・ハヌショヴァーと結婚し、その秋にはリトアニアのヴィリニュスで合唱指導の職に就いた。
この最初の妻との間には1874年に双子の男女が生まれたが、男児(リハルト)は数時間後に亡くなった(もう一人のエルサも2年後には亡くなってしまう)。さらに妻を看病しに来ていたフィビフの姉が、そして追い討ちを掛けるように、10月には妻も亡くなってしまった。
再婚

1875年 自分の姉と一緒になってくれるようにとの亡妻の願いを容れ、フィビフはルージェナの姉・ベッティと再婚した。ベッティは、当時スメタナやフィビフの等のオペラに出演して人気を博していた仮劇場?国民劇場のコントラルト歌手であった。


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