ズップリンブルク家(Supplinburger)は、中世ドイツにおいてローマ王およびローマ皇帝を出したザクセン出身の貴族の家系である。ズップリンゲンブルク家(Supplingenburger)とも呼ばれる。また、皇帝を出した王朝としてザクセン朝ともいわれるが、リウドルフィング家のザクセン朝と直接の関係はない。 ズップリンブルク家は1021年以降ザクセン公領内のハルツガウ伯(de:Harzgau
歴史
1125年、皇帝ハインリヒ5世は継嗣なく没した。同年開かれた国王選挙のための集会は紛糾したが、結局ロタールがローマ王に選出された[5][6]。1133年にはローマから追われていた教皇インノケンティウス2世を復帰させ、9月13日アーヘンでローマ皇帝の冠を受けた[6][7]。国王の後継の座を争ったシュタウフェン家とは1135年の和解に至るまで、国王領の支配をめぐって争っている[8]。
ロタール3世には息子がおらず、1127年にヴェルフ家のバイエルン公ハインリヒ傲慢公を一人娘ゲルトルートと結婚させた上で後継者とし、王権の拡大を図った[8]。しかし1137年12月4日、ロタール3世は南イタリアからの帰還の途上死去し、ズップリンブルク家の男系は断絶した[9]。
ロタール3世の死後、シュタウフェン家のコンラート3世がローマ王として即位し、ホーエンシュタウフェン朝を開いた[10]。女婿ハインリヒ傲慢公はザクセン公領を継いだが、1138年にコンラート3世によりバイエルン公領ともども剥奪された。ゲルトルートとハインリヒ傲慢公との間にはハインリヒ獅子公が生まれ、ザクセン公位[11]およびバイエルン公位[12]は後にハインリヒ獅子公に授封されている。その子オットー4世は、1209年にローマ皇帝となった[13]。 リウトガー
ローマ王および皇帝
ロタール3世(王在位:1125年 - 1137年)、皇帝在位:1133年 - 1137年)
系図
ハルツガウ伯
ベルンハルト
ズップリンブルク伯
ハルツガウ伯 オットー・フォン・ノルトハイム
バイエルン公 エクベルト1世
マイセン辺境伯
ゲープハルト
ズップリンブルク伯
ハルツガウ伯 ヘートヴィヒ
・フォン・フォルムバッハ ハインリヒ
ノルトハイム伯 ゲルトルート
ロタール3世
ザクセン公 リヒェンツァ
ハインリヒ傲慢公
バイエルン公
ザクセン公 ゲルトルート ハインリヒ2世
オーストリア公
バイエルン公
ハインリヒ獅子公
ザクセン公
バイエルン公
オットー4世
ヴェルフ家
凡例
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脚注[脚注の使い方]^ 瀬原、p. 375
^ 瀬原、p. 338
^ 瀬原、p. 343
^ 成瀬 他、p. 207
^ 成瀬 他、p. 212
^ a b 瀬原、p. 374
^ 成瀬 他、p. 214
^ a b 成瀬 他、p. 213
^ 成瀬 他、p. 215
^ 瀬原、p. 386
^ 成瀬 他、p. 216
^ 成瀬 他、p. 219
^ 成瀬 他、p. 251
参考文献