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元首等
1013年 - 1019年ザウィ・イブン・ジリ(初代)
1073年 - 1090年アブダラ・イブン・ブルギン(最後)
変遷
成立1013年
ムラービト朝の占領1091年
ズィーリー朝は、イベリア半島南部に位置するグラナダを首都としたイスラム教徒によるタイファ(小王国)の王朝(1013年 - 1091年)。コルドバを首都としていた後ウマイヤ朝が衰えた後、ズィール朝の一族が1013年にグラナダを中心として、当時のアル・アンダルス地方にてグラナダ王国(Taifa de Granada)を形成し、タイファ諸国の1つとなった。 バヌ・ジリ(ズィーリー)(Banu Ziri)一族は、ベルベル人で、北アフリカのイフリーキヤ(現在のチュニジアを中心とする広範な地域)からの流れであり、アルジェリアの山岳地帯が発祥の地である。ザウィ・ベン・ジリ(Zawi ben Ziriは、カリフ・ファタミの将軍の息子として、北アフリカのAchirに生まれた。彼に率いられたズィーリー一族は、いつの頃か明確ではないが、アル・アンダルスに渡ってきて、アルマンスールの下で傭兵として働いた。その後、彼は、アルマンスールの軍の1人の将軍となり、後ウマイヤ朝の高官となった。 アルマンスールが、1002年に死去すると、アル・アンダルスは内戦状態になった。ザウィ・ベン・ジリは、一族を率いて1013年に、エルヴィラ(又は、イルビラ)[1]を中心地とする地域を支配下に置き、タイファ(小王国)を形成しエミール(統治者)と称した。しかし、エルヴィラの町は防衛が難しい場所にあったため、彼は、中心地を近くのガルナタ(現在のグラナダ)に移した。グラナダには、2つの川があったことも有利であった[2]。あるいは、一族間の何らかの問題で移動した可能性もある。ここには、先住民がいたが、人々は、1010ー1025年頃の期間に移り住んだと言われる。現在のアルバイシン区のあたりから定住が始まり、徐々に市街地は拡大していき、一時は、4千戸があったとされている[3]。 1019年、ザウィは、出身地である北アフリカのイフリーキヤの政権にて、国王が死去し、その後継者が未成年であったことの知らせを受け、政権を引き継ぐつもりでグラナダを離れた。この決断により、グラナダの王位は甥のハブス・ベン・マクサンのものとなった。彼は、後にアルジェにて、当地の王によって毒殺された。 ハブス・ベン・マクサン(Habus ben Maksan)は、叔父(又は伯父)が去った後、グラナダにて権力を持っていたイスラム法判事の助けにより、叔父の息子達を退けて王の位置を獲得した。その治世には、グラナダ小王国は、政治的、文化的、経済的に大きく発展し、その中でユダヤ人サムエル・ベン・ナグレラが大きな役割を果たした。 1030年、彼は宰相に任命され、1057年に亡くなるまで、徐々に王国の真の支配者となった。この時期、タイファの領土は北に広がっていった。 ハブス・ベン・マクサンの王位は、息子のバディス・ベン・ハブス(Badis ben Habus)によって継承されたが、グラナダの宮廷の一部は、甥のヤダイル・ベン・フバサ(Yaddair ben Hubasa)を支持し、王位奪取の陰謀を組織した。しかし、この陰謀は、宰相サムエル・ベン・ナグレラによって新王に伝えられ、これは失敗し、新王の立場を強めるものになった。
歴史
初期・建国時期
ザウィ・ベン・ジリの時代(1013年ー1019年)
ハブス・ベン・マクサン治世(1019年―1038年)
最盛期
バディス・ベン・ハブスの治世(1038-1073)
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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