スー族
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スー族(スーぞく、Sioux [su?])は、アメリカ合衆国北部中西部に先住するインディアン部族である。その中の最大部族・ダコタ族、ラコタ族およびナコタ族の総称。勇猛果敢、しばしば白人と戦い、1876年にはカスター将軍の部隊を全滅させたことは、よく知られている。
文化・歴史

「スー」という部族名は、略奪民のスー族に食い物にされていたアルゴンキン語族のオジブワ族が彼らのことを「ナドウェズ・スー(Nadouessioux)」、つまり「小さな(siu)蛇(nadowe)」と呼んだものを、17世紀末ごろにフランス人入植者が「スー族」と縮めて呼んだものである。蔑称であるが、インディアンは部族同士を蔑称で呼び合う伝統文化を持っているので、これは特別な例ではない。(「オジブワ」も蔑称との説がある)。ちなみにイロコイ族は「ナドワ(毒蛇)」と呼ばれていた。アメリカ連邦政府との連邦条約交渉などもすべて「スー」の呼称で行われており、現在も公式の部族名として使われている。スー族のティーピー(カール・ボドマー画、1833年)

「スー族」はアメリカ大平原に住む3氏族からなる部族連合であり、この部族連合ではそれぞれ「ラコタ語」、「ダコタ語」、「ナコタ語(英語版)」という3つのスー語方言が話される。19世紀末までは定住せず、夏はティピーに住んでバッファローの群れを追い、冬はウィグワムの「冬の村」に住むという、北部平原で最も勢力を誇った典型的な平原インディアンだった。三つの氏族はさらに細かいバンドに分かれ、それぞれが大平原に分散し、狩猟採集の生活を送った。因みにティピーとはダコタ語で「住居」という意味である。

アルゴンキン語族に属し、紀元前4000年頃にオハイオ州オハイオ川流域でスー族が結成されたとされる。そして西に移動し北東部ウィスコンシン州そしてミネソタ州ミラックス湖リーチ湖周辺の森林地帯に居住した。
17?18世紀
17?18世紀にかけ、イロコイ族が南方から北東部へ勢力を移すに従い、オジブワ族との対立及び白人(スー族の言葉では「ワシチュー」)の侵入が激化。この影響で徐々に西方の平原地帯へと追いやられ、平原部族へと変わった。彼らの神話では、そのときに「コーンを無くした」と表現され、農業不可能な平原でコーン(トウモロコシ)栽培の生活を捨て、完全な狩猟民族に変わらざるを得なかった歴史を伝えている。スー族の支族のひとつ「ミネコンジュー」は、「ミネ(水)・コーン(トウモロコシ)・ジュー(植えるもの)」、つまり「水辺でコーンを植えるもの」という意味で、かつての生活を表した名である。スー族と馬(カール・ボドマー画、1830年代)18世紀にスペインから馬が大平原にもたらされると、スー族はいち早くこれを採り入れ、ホース・インディアンとなった。家財道具を載せたトラボイ(Travois)を引く役割は(シュンカ)から馬に代わり、馬はバッファロー狩りの規模を広げ、部族の力を強大なものにした。スー族は馬を「シュンカ・ワカン(神秘なる犬)」と呼んだ。馬は犬の何頭分もの力を持っていたのである。スー族は馬を使って大平原で略奪を行い、また他の平原部族と、栄誉あるスポーツとして「馬の盗みあい」を繰り返した。馬は個人・部族の勢力を表すものとなり、貨幣のない社会で実質的に貨幣となった。かれらは先の湾曲した「クー・スティック」で敵方の身体を打つ、クー遊びを最大の娯楽とした。クーは戦士にとって無上の栄誉とされ、一叩き毎にその戦士の「羽根冠」に鷲の羽根が追加された。シャイアン族アラパホー族などの平原部族と同盟を結び、オジブワ族、アリカラ族、クロウ族、ポーニー族などとは敵対した。後三者はインディアン戦争ではアメリカ陸軍に「インディアン斥候(Indian Scouts)」として加わり、敵対するスー族と戦った。スー族を始め平原の部族が、他部族と行う「戦さ」は、上記したように「クー」を数えるのが主眼であって、白人の小説や映画で強調されるような血みどろの殺し合いはめったになかった。歴史作家のラリー・マクマートリーはこれを譬えて、ニューギニア原住民が行う、「昼間行い、夕食前には家に帰る、娯楽としての戦争」と同じものだとしている。スー族の集団(チャールズ・ディアズ画、1845年)
19世紀末
19世紀も末になると、他のインディアン部族と同様に、白人による居留地政策によって、狩猟採集生活は禁止され、居留地(Reservation)内での定住生活を強制される。こうして狩猟民族としての文化の数々が破壊された。(つまりは二度、白人によって文化を破壊されたことになる)
衣装・踊り

「スー族」というと、西部劇映画に起因する、派手な羽飾りのついた冠や、ヤマアラシの刺の飾りやフリンジのついた鹿皮のシャツを着たステレオタイプな戦士像が多々見られるが、これは「晴れ着」であって日常的な服装ではない。基本的にインディアンは活動しやすい腰布一枚が定番の姿だった。

スー族には多種多様な踊りがあり、精霊への祈りを込めた踊りは日常的に行われた。スー族の集団の踊りは、時計回りに踊るのが作法である。1832年にスー族を訪問した白人画家のジョージ・カトリンは、スー族の踊りの多様さに感じ入って、「彼らの名を“踊るインディアン”と改めたくなったほどだ」と言葉に残している。熊を狩る場合には狩人たちは熊の扮装をして熊の精霊の許しを乞うた。また「戦さ」で得た敵部族の頭の皮を槍に刺して振りかざし、武勇を誇示する戦士たちの「頭皮の踊り」は特にこの画家に強い印象を残し、数々の写実画を残している。現在もパウワウでは様々な踊りが踊られており、踊りのコンテストも催され、オリジナルな踊りも生みだされ披露されている。

踊りやあらゆる儀式に使われる道具として太鼓があるが、移動生活を送って来たスー族の太鼓は、持ち運びのしやすい手提げ太鼓や団扇太鼓である。映画や漫画には、スー族など平原の部族がティーピーの横で据え置き型の太鼓を叩いている描写が多々見られるが、これはデタラメなものである。
強制定住白人によって皆殺しにされたバッファロー(アメリカバイソン)の頭蓋骨の山(1870年代)

インディアン移住法に基づく白人の居留地政策は南北戦争終了後、西部にも及んだ。スー族は断固これに反抗し、苛烈なインディアン戦争を戦った。さらに大陸横断鉄道が彼らの居留地を分断し、平原部族の命の綱のバッファローが、戦略的に白人によって虐殺され絶滅状態に追い込まれてしまい、居留地で狩猟を禁じられた彼らは飢餓状態となった。

居留地への強制定住の引き換え条件のはずの年金(牛・穀物)の支給は、居留地管理官のサボタージュと横領で、約束どおり支払われたことは一度もなかった。飢えたスー族は暴動を起こし、陸軍が派遣され皆殺しにあうという繰り返しが「インディアン戦争」の実状である。
偉大なるスーの国1868年の「ララミー砦条約」で合衆国から「永久不可侵の領土」として保証された「偉大なるスーの国」(桃色の枠線内)と、現在の居留地(茶色の部分)

白人の和平委員会は、1868年のララミー砦での条約でスー族に対し、現在のサウスダコタ州全域を覆う規模の広大な土地を「白人が入ることを許されない、スー族の固有不可侵の領土」として「偉大なるスーの国(英語版)(グレート・スー・ネイション)」を保証した。この広大な領地で、スー族はバッファローを狩り、伝統の生活を営むことを公約で約束された。

が、その数年後にブラックヒルズで金が見つかると、「偉大なスーの国」は瞬く間に白人に侵食され、細分化されていった。「リトルビッグホーンの戦い」や「ウーンデッド・ニーの虐殺」以後は、懲罰込みの加速度でスー族の土地は没収されていった。こうして「偉大なスーの国」は、不可侵条約を破った白人によって粉々に粉砕されてしまい、飛び地のような各居留地にその面影を残すのみとなっている。
スー族の社会スー族の野営(1894年)

伝統的に高度な個人主義文化を持つ。男女同権であり、結婚も離婚も男女自由である。これは現在のスーの人々にも根強い。男性同性愛者などのLGBTは「ウィンクテ(女男)」と呼ばれ、かつては戦場で負傷者の手当てを行う役目を持っていた。他の部族と同様にLGBTが白人キリスト教徒によって徹底的に弾圧を受け、社会的役割を持っていない中、スー族のウィンクテは現在も神聖な赤子の名づけを行うなどの役割をスー族の社会に持っている。


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