スーパーモデル
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「最もリッチなモデル」としてギネスブックに登録されているジゼル・ブンチェン(2006年、ファッションショーにて)[1]

スーパーモデル(Supermodel)とは、ファッションモデルの中でも特に有名で、世界的な知名度と破格のギャランティーを誇るモデルを指す言葉。「スーパーモデル」という言葉は1990年代に広く知られるようになり[2]、数百万ドルの報酬と引き換えに有名高級ブランドのオートクチュールや、商業広告に登場することが多い[3][4][5][6]。またスーパーモデルは世界中の雑誌の表紙を飾る機会が多いが、これについてスーパーモデルと広く認知されているモデルの一人であるクラウディア・シファーは「スーパーモデルになるためには、誰もがその子の存在を知りえるように、世界中の雑誌の表紙を常に飾り続けなければならない」と述べている[7][8][2]
歴史
用語と初期のスーパーモデルの起源

マイケル・グロスの著書『トップモデル―きれいな女の汚い商売』によると、スーパーモデルという言葉が最初に使われたのは1943年にクライド・マシュー・デスナーが書いたモデルになるための「ハウトゥー本」だという[9][10] 。しかし、作家のジュディス・キャスはクライド・マシュー・デスナーが本を出版する以前の1942年10月に、『シカゴ・トリビューン』に「'Super' Models Are Signed for Fashion Show」という見出しの記事を書いている[11][12]

1960年代1970年代になると「スーパーモデル」という言葉がメディアにたびたび登場するようになる。1967年5月に『ソールズベリー・デイリー・タイムズ』はスーパーモデルとしてのツイッギーに言及した。1968年2月には『グラムール誌』が全19人の「スーパーモデル」をリストアップしたほか、『シカゴ・デイリー・ディフェンダー』は1970年1月に「New York Designer Turns Super Model」という記事を書いている。『ワシントン・ポスト』と『マンスフィールド・ニュース・ジャーナル』は1971年に語を使用した。そして、1974年に『シカゴ・トリビューン』と『アドボケート』も語を利用し記事を掲載している[11]。アメリカ版『ヴォーグ』は1975年9月の記事でマーゴ・ヘミングウェイに言及するために、カバーページでこの語を使用した[13]。雑誌『ジェット』も1977年12月にベヴァリー・ジョンソンを「スーパーモデル」と評している[14]

1979年にはモデルのジャニス・ディキンソンは“スーパーマン”と“モデル”の合成語として「スーパーモデル」という言葉を作ったと主張した[15]。ディキソンが『エンターテイメント・トゥナイト』のインタビューで語ったところによると、エリート・モデル・マネジメントの彼女のエージェントであるモニーク・ピラールが彼女に「ジャニス、あなたはあなた自身を一体誰だと思う?、スーパーマン?」と尋ねたところ、ディキソンは「いいえ、私はスーパーモデルよ。」と答えたという。

現在では一般的に、リサ・フォンサグリーヴスが初のスーパーモデルとして広く認識されている[16][17]。彼女は1930年代から1950年代まで『タウン&カントリー』『ライフ』『ヴォーグ』『ヴァニティ・フェア』と『タイム』を含む主要なファッション雑誌に登場し、『ヴォーグ』誌における彼女のイメージと知名度は、同誌の将来とスーパーモデルを形作る際にとても重要なものになったと言える[16][17]
1960年代 - 1970年代

1968年の『グラムール誌』の記事ではツイッギー、シェリル・ティーグス、ウィルヘルミーナ・クーパー、ヴェルーシュカ・ヴォン・レンドルフ、ジーン・シュリンプトンと他15人のトップモデルを「スーパーモデル」として挙げ[18]アンディ・ウォーホルによってもこの言葉が広められたと言われる。ウィルヘルミーナ・クーパーはアメリカのヴォーグ誌の表紙を27 - 28回飾ったモデルとしての記録を持っている。

1970年代に入ると、世間がモデルをより認識できるようになったので、モデルは若干有名になった。『スポーツ・イラストレーテッド』編集長ジュリー・キャンベルは、「より大きくて、より健康な」カリフォルニアモデル[19]を撮影して、写真に彼らの名前を印刷することによって、それまでの『スポーツ・イラストレーテッド・スイムスーツ・イシュー』のモデルの傾向を一新した。このように、メディアの発達とともにスーパーモデルはその地位の基礎を確立していった[19]

1975年にマーゴ・ヘミングウェイがファベルジェと100万ドルの契約をものにした。そして、同じ年に『タイム』の表紙を飾り、「新しい美人」のうちの1人と分類された。そして、ファッションモデルに更なる知名度を与えた[20]

ローレン・ハットン[21]、化粧品会社と巨額の契約をした最初のモデルとなって、『ヴォーグ』の表紙を25回飾った[22]。ダニエル・ルーナは『ヴォーグ』に登場した初めてのアフリカ系アメリカ人モデルである[23]。またアメリカ版の『ヴォーグ』に限ると、初めて表紙を飾ったアフリカ系アメリカ人モデルは1974年のベヴァリー・ジョンソンであった[24]。またイマン・アブドゥルマジドも「最初」ではないが、有色人種のモデルの先駆けであることに間違いはない。
1980年代リンダ・エヴァンジェリスタ2004年

1980年代初期にイネス・ド・ラ・フレサンジュがオートクチュール・ブランド(シャネル)との独占契約をした最初のモデルになった[25]。1980年代初期、ファッションブランドはテレビ番組や街頭看板などでのコマーシャルを開始し、ジア・キャランジ[26]、シェリル・ティーグス[26]、キャロル・アルト、クリスティ・ブリンクリー[5][27]、キム・アレクシス[26]、ポーリーナ・ポリスコワ、エル・マクファーソンといった第一線で活躍するモデルたちはペプシ・コーラやフォード・トラックスのような企業で、単に容姿のみならず、そのネームバリューで広告契約を勝ち取るようになる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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