スーパーマンの映画作品
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DCコミックスから出版されているコミック作品に登場する架空のキャラクターであるスーパーマンは、誕生以来多数の映画作品に登場している。初めてのスーパーマンの長編映画は1951年の『スーパーマンと地底人間(英語版)』である。1974年、イリヤ・サルキンドアレクサンダー・サルキンドとピエール・スペングラー(英語版)が『スーパーマン』の映画化権を獲得し、数段階の脚本執筆を経て、リチャード・ドナー監督が雇われ、『スーパーマン』(1978年)と『スーパーマンII』(1980年)を撮った。ドナーは1作目が完成する前の段階で既に『スーパーマンII』の80%を撮影済みであった。『スーパーマン』の公開後、サルキンド親子はドナーを解雇し、『スーパーマンII』を完成させた。レスターは『スーパーマンIII』(1983年)も監督し、そしてサルキンド親子は1984年のスピンオフ『スーパーガール』をプロデュースした後、キャノン・フィルムズへ権利が売却され、『スーパーマンIV』(1987年)が公開された。その後15年に渡って5作目の『スーパーマン』の企画が練られ、2006年に『スーパーマン』と『スーパーマンII』の流れを汲んだブライアン・シンガー監督の『スーパーマン リターンズ』が公開された。ワーナー・ブラザースは『スーパーマン リターンズ』の興行成績に満足せず、シリーズのリブートを決定し、2013年6月にザック・スナイダー監督、デヴィッド・S・ゴイヤー脚本、クリストファー・ノーラン製作の『マン・オブ・スティール』が公開される。
連続活劇映画

スーパーマンが初めて大スクリーンに登場したのはコロンビア映画による連続活劇『Superman』(1948年)と『Atom Man vs. Superman』(1950年)である。
『スーパーマンと地底人間』(1951年)詳細は「en:Superman and the Mole Men」および「スーパーマンと地底人間」を参照

1951年の映画『スーパーマンと地底人間』は、スーパーマンをジョージ・リーヴス、ロイス・レインをフィリス・コーテス(英語版)が演じた。プロデューサーはバーニー・A・サレッキー、監督はリー・ショレム(英語版)、脚本はリチャード・フィールディングである。
オリジナルシリーズ
『スーパーマン』(1978年)詳細は「スーパーマン (1978年の映画)」を参照

1973年、プロデューサーのイリヤ・サルキンドは父のアレクサンダーがスーパーマンの権利を購入することを確信した。彼らは2本の映画の脚本を書かせるマリオ・プーゾを雇い、さらにスティーヴン・スピルバーグを監督として交渉したが、『ジョーズ』が予算オーバーとなっていることを理由にアレクサンダーは彼を拒否した[1]マーロン・ブランドジーン・ハックマンはそれぞれジョー=エル(英語版)とレックス・ルーサーを演じる契約を交わし、さらにガイ・ハミルトンを監督に雇った。しかしながらブランドはイタリアで『ラストタンゴ・イン・パリ』のわいせつ描写に関する訴訟を抱え、またハミルトンは税金の支払いに関する問題のためにイングランドでの撮影が困難であった。サルキンド親子は新たにリチャード・ドナーを監督に雇った。ドナーは脚本修正のためにトム・マンキーウィッツを雇い、キリストのようなオーバートンを持つシリアスな雰囲気を漂わせた[2]

スーパーマン役にはクリストファー・リーヴが選ばれた[1]。ブランドの撮影期間は2週間未満であり[1]、また脚本も読んでいなかったにもかかわらず[2]、彼のギャラは出演者の中で最高の370万ドルに収益の11.75%という契約であった[1]。映画は批評的にも商業的にも成功した。公開は1978年のクリスマスシーズンであったが、当時は競争相手が無かったために成功したのだとプロデューサーは考えた[3]

77年の『スター・ウォーズ』を始め光学合成技術が躍進した時期であったが、スーパーマンのコスチュームはブルーが主体なので背景とコスチュームが似た色になるブルーバック合成は使えなかった。1968年の『2001年宇宙の旅』で視覚効果製作に参加していたゾラン・ペリシックが同作で大々的に使われたフロント・プロジェクション技術を応用し「ゾプティック・プロセス」を開発。ワイヤーワークで役者を吊り下げるより動きの自由度を広げ、自然に見える飛行シーンを実現した。またフロント・プロジェクションの背景に使われる反射スクリーンの素材を惑星クリプトンの人々が着用するスーツに貼り付けフロント・プロジェクションシステムで撮影することで、衣服が輝く斬新な映像も生み出している。
『スーパーマンII』(1980年)詳細は「スーパーマンII」を参照

サルキンド親子と衝突したドナーのものと、彼の降板後に引き継いだリチャード・レスターによるものの2作が存在する[2]。1作目と2作目を同時に製作中、予算が超過すると映画会社側は『スーパーマンII』の製作中止を決め、本来2作目の結末となるはずの場面が1作目に回された[1][2]。その後『スーパーマン』が成功したにもかかわらず、ドナーは『スーパーマンII』は監督に復帰できず[2]、レスターにより完成させられ、映画はよりコメディ調となった。さらにサルキンド親子は財政面での理由からブランドの出演箇所をカットし[1]、さらに作曲のジョン・ウィリアムズも他のプロジェクトのために降板した[1]。『スーパーマンII』は商業的にも批評的にも成功した。2006年、リチャード・ドナーとプロデューサーのマイケル・ソーにより『スーパーマンII リチャード・ドナーCUT版』が製作され、11月28日に公開された。この新バージョンは批評家から高評価された[4]
『スーパーマンIII』(1983年)詳細は「スーパーマンIII」を参照

3作目のためにイリヤ・サルキンドはブレイニアック、Mr.ミクシィズピトルク(英語版)、スーパーガールが登場し、映画を宇宙規模に広げた脚本の概要を執筆した[2]。元のアウトラインではブレイニアックとスーパーガールの親子関係が描かれていたり、またコミックでは従兄妹であったにもかかわらずスーパーマンとスーパーガールが恋愛をするというものであった[5]。ワーナー・ブラザースはその案を拒否し、リチャード・プライヤー演じるガス・ゴーマンが登場する『スーパーマンIII』を独自に作り上げた。一新された脚本[2]では、ブレイニアックの役割は悪の「最強のコンピュータ」に縮小された[1]。映画は商業的には成功したものの、前作までのシリアスなトーンと相反するプライヤーの演技などがファンの失望を買い、また悪のスーパーマンの描写は論争を巻き起こした。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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