この項目では、プロレスラーのビリー・グラハムについて説明しています。キリスト教伝道者のビリー・グラハムについては「ビリー・グラハム」をご覧ください。
"スーパースター"
ビリー・グラハム
1975年
プロフィール
リングネームスーパースター・ビリー・グラハム
ウェイン・コールマン
本名エルドリッジ・ウェイン・コールマン
ニックネーム鉄腕
身長193cm
体重125kg(全盛時)
誕生日 (1943-09-10) 1943年9月10日
死亡日 (2023-05-17) 2023年5月17日(79歳没)
出身地 アメリカ合衆国
アリゾナ州
パラダイスバレー
スポーツ歴アメリカンフットボール
パワーリフティング
ボディビルディング
トレーナースチュ・ハート
デビュー1970年[1]
引退1987年[1]
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スーパースター・ビリー・グラハム("Superstar" Billy Graham、本名:Eldridge Wayne Coleman、1943年9月10日 - 2023年5月17日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。アリゾナ州パラダイスバレー出身。
1970年代を代表する文字通りのスーパースター。1980年代以降続々と登場するハルク・ホーガン、ジェシー・ベンチュラ、ランディ・サベージなどのボディビルダー系、マッチョマン系と称されるタイプのレスラーたちのモデルとなった人物[2]。来日した際に付けられたキャッチコピーは「鉄腕」。
怪力と反則を駆使したスタイルでテクニックには乏しかったが、観客とのやり取りやマイクパフォーマンスには抜群の才能を発揮し、ヒールでありながら驚異的な人気を誇った。ホーガンやベンチュラも、もともとは彼の熱狂的なファンであった。饒舌で知られるリック・フレアーも、グラハムの話術をコピーしたと告白している[3]。サイケデリックな色彩の絞り染めのロングタイツとバンダナのリングコスチューム、現役晩年に用いられたスキンヘッドとラウンド髭といったスタイルも、後年のレスラーに大きな影響を残している。一方、プロモーション・インタビューの慣習がなく言葉の通じない日本のマット界では現役当時の評価は低く、「木偶の坊」「期待外れ」などと呼ばれた[4]。 10代の頃からアメリカンフットボールや陸上の投てき競技で活躍し、ボディビルのコンテストでは優勝経験も持つ。1968年にAFLのオークランド・レイダースとヒューストン・オイラーズのトライアウトに参加したが、ロースターには残れず、CFLのカルガリー・スタンピーダーズからも開幕前に解雇された。以後、同じくCFLのモントリオール・アルエッツと契約し、5試合にディフェンシブエンドとして出場した[5]。その後、ボディビルで鍛えた肉体を活かすべくプロレスに転向、CFLの先輩でもあるスチュ・ハートのトレーニングを受け[6]、1970年1月に本名のウェイン・コールマン名義でデビュー[1][7]。 同年夏、NWAのロサンゼルス地区にてドクター・ジェリー・グラハムと出会い、長男ジェリー、次男エディ・グラハム、三男ルーク・グラハムからなるグラハム兄弟の「末弟」としてスーパースター・ビリー・グラハムのリングネームを名乗った[6]。スーパースターは当時大ヒットしていたミュージカル『ジーザス・クライスト・スーパースター』から、ビリーはキリスト教伝道師のビリー・グラハムからそれぞれ付けられたとされる[6]。その後はサンフランシスコ地区に北上。1971年1月7日にパット・パターソンと組み、レイ・スティーブンス&ピーター・メイビアから同地区認定のNWA世界タッグ王座を奪取した[8]。 1972年10月よりAWAに参戦[9]。ワフー・マクダニエルとの抗争で名を売り、1974年8月16日にはビル・ロビンソンを破ったとして、AWAと提携していた国際プロレスのIWA世界ヘビー級王座を獲得[10]。同年9月、王者として国際プロレスの『スーパー・ワイド・シリーズ』に初来日[11]。9月15日の後楽園ホールでの開幕戦ではアニマル浜口を一蹴、試合後には「ハマグチなんて若僧は口ほどでもない。日本で俺に勝てる奴なんていないだろう」などと豪語した[12]。10月1日に大分の大分県立荷揚町体育館、10月5日に名古屋の愛知県体育館にてマイティ井上の挑戦を退け防衛に成功[13][14][15]。
来歴