スヴャトスラフ テオフィーロヴィチ リヒテル
基本情報
生誕 (1915-03-20) 1915年3月20日
ロシア帝国、ジトーミル
出身地 ソビエト連邦
死没 (1997-08-01) 1997年8月1日(82歳没)
ロシア、モスクワ
学歴モスクワ音楽院
ジャンルクラシック音楽
職業ピアニスト
担当楽器ピアノ
スヴャトスラフ・テオフィーロヴィチ・リヒテル(ロシア語: Святосла?в Теофи?лович Ри?хтер、ウクライナ語: Святослав Теоф?лович Р?хтер、ラテン文字転写例: Sviatoslav Teofilovich Richter、1915年3月20日 - 1997年8月1日)は、ソビエト連邦のピアニストである。ドイツ人を父にウクライナで生まれ、主にロシアで活躍した(ただし在留ドイツ人として扱われた)。その卓越した演奏技術から20世紀最高のピアニストの一人と称された。 スヴャトスラフ・リヒテル目次 1915年3月20日に今日ではウクライナ領となっているジトーミルに生まれた、父は、ドイツ人ピアニストの父テオフィル・リヒター
1 生涯
2 音楽
2.1 レパートリー
2.2 演奏
2.3 録音
2.4 使用楽器
2.5 活動の特徴
2.6 指揮
3 人物
3.1 人柄
3.2 余技
3.3 交友関係
4 関連書籍
5 脚注
5.1 注釈
5.2 出典
6 外部リンク
生涯
1937年、22歳でモスクワ音楽院に入学し、ウクライナ生まれのドイツ系ピアノ教師ゲンリフ・ネイガウス(ドイツ語読みではハインリヒ・ノイハウス)らに師事した[3]。このモスクワへの移住が、ドイツ系ルター派教会の信徒であったという、共産党独裁体制下のソ連における危険な立場から、リヒテルを救うこととなる。彼はモスクワ音楽院に入学した時点ですでに完成されたピアニストだったといわれ、ネイガウスは「何も教えることはなかった」という言葉を残しているが、リヒテル自身はネイガウスから多くのことを学んだと言っている。ネイガウスはリヒテルを天才であるといい、時に荒削りの演奏をあえて直そうとはしなかった。同門のエミール・ギレリスは1歳年下だが、モスクワ音楽院では2年先輩にあたる。
リヒテルはネイガウスの紹介によりセルゲイ・プロコフィエフと親交を持つようになり、1943年1月18日にはモスクワでプロコフィエフのピアノソナタ第7番を初演し、成功を収めた。翌1944年にはプロコフィエフの3曲の戦争ソナタによるリサイタルを行った[1]。以後、ソ連国内で活発な演奏活動を行うようになり、1945年には30歳で全ソビエト音楽コンクールピアノ部門で第1位を受賞した。プロコフィエフが政府から反革命的と批判されたときも常にプロコフィエフと活動を行った。
1950年に初めて東欧で公演も行うようになり、一部の録音や評価は西側諸国でも認識されていた。しかし、冷戦で対立していた西側諸国への演奏旅行はなかなか当局から許可が下りなかった。リヒテルは1941年に父親をソ連当局によって銃殺されており[4]、母親は第二次世界大戦の末期にドイツに移住していた。このため、当局は西側への旅行を認めた場合に彼が亡命することを警戒していたともいわれる[5]。そのため、西側諸国ではその評判が伝わるのみで実像を知ることができず、「幻のピアニスト」とも称されるようになった[1]。ソ連の演奏家としては最も早い時期から国際的に活躍していた一人であるギレリスが、演奏後に最大の賛辞を贈ろうとしたユージン・オーマンディを「リヒテルを聴くまで待ってください」と制したことも、この幻のピアニストへの期待をかき立てた[5]。
1958年にはこの年の2月25日にブルガリアのソフィアで行ったリサイタルの録音が西側でもレコードとして発売された。ムソルグスキーの展覧会の絵などを含むこの録音は名演奏と称えられ、リヒテルの当代一のピアニストとしての真価を知らしめた[1]。同年に第1回チャイコフスキー国際コンクールが開催され、この大会を制したヴァン・クライバーンが滞在中に聴いたリヒテルの演奏について「生涯で聞いたなかでもっともパワフルな演奏であった」と帰国後に語ったことで、このピアニストの評判はさらに高まることとなった[6]。リヒテルはこの第1回チャイコフスキー国際コンクールで審査員を務め、クライバーンに満点の25点をつけ、他の全てのピアニストに0点をつけた[7]。