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エカチェリーナ2世
インペラトリーツァ・エカチェリーナ・ヴェリーカヤ
スヴォボードナヤ・ロシア
停泊中のインペラトリーツァ・エカチェリーナ・ヴェリーカヤ
艦歴
起工1911年6月11日 ONZiV
スヴォボードナヤ・ロシア(自由ロシア[1];ロシア語:Свободная Россияスヴァボードナヤ・ラスィーヤ)は、ロシアおよびウクライナの弩級戦艦(дредноут)である。ロシア海軍やウクライナ海軍の類別では戦列艦(линейный корабль[2])に分類された[3]。艦名は「自由なるロシア」という意味。 第一次世界大戦前、ロシア帝国の黒海艦隊は前弩級戦艦しか保有しなかった。これらはドレッドノートの登場で一挙に旧式化し、仮想敵国であったオスマン帝国が弩級戦艦の購入の検討を始めると、黒海艦隊でも弩級戦艦の整備が至急の課題となった。 ロシア帝国は黒海艦隊向けに3 隻の弩級戦艦の建造を決定し、その2番艦は1911年6月11日、修理が終わったばかりのニコラーエフ工場・造船所協会「ナーヴァリ」(ONZiV、現在の国営株式ホールディング会社「黒海造船工場」
概要
建造
エカチェリーナ2世は、1914年5月24日にニコラーエフにて進水し、同年夏に第一次世界大戦が始まるとその建造は急がれた。1915年6月14日には、艦名はインペラトリーツァ・エカチェリーナ・ヴェリーカヤ(Императрица Екатерина Великаяインピラトリーツァ・イカチリーナ・ヴィリーカヤ)[5]に改められた。 1915年11月30日、インペラトリーツァ・エカチェリーナ・ヴェリーカヤは海上公試を終えて実戦配備に就いた。そして、防護巡洋艦パーミャチ・メルクーリヤを従えて第2戦術機動グループを編成、アナトリア半島沿岸の封鎖作戦に参加した。 1916年1月8日、哨戒任務に就いていたエカチェリーナはオスマン帝国海軍の巡洋戦艦ヤウズ・スルタン・セリム[6]に遭遇した。射程一杯の距離からの5度にわたる巡洋戦艦の斉射はエカチェリーナまで届かず、巡洋戦艦は戦場からの離脱を開始した。エカチェリーナはこれを追撃し、30分にわたり305 mm砲弾を浴びせ続けた。最後の斉射は距離22.5 kmからの射撃となった[7]。巡洋戦艦はわずかに砲弾の破片を浴びただけで、無事にボスポラス海峡へ逃げ込んだ[8]。 エカチェリーナはその後、1916年2月5日から4月18日にかけて実施されたトラペズンドへの砲撃作戦に参加した。 1917年にペトログラードで発生した二月革命ののち、キエフにはウクライナ中央ラーダが結成された。ウクライナ人の割合の高かった黒海艦隊でも、中央ラーダに同調した民族主義・社会主義運動が活発化した。エカチェリーナを含め、黒海艦隊のほとんどの艦船ではウクライナ系のラーダが組織された。
世界大戦
臨時政府