スヴェトザル・ボロイェヴィッチ
[Wikipedia|▼Menu]

スヴェトザル・ボロイェヴィッチ・オド・ボイネ
Svetozar Borojevi? od Bojne

渾名イゾンツォの騎士
生誕 (1856-12-13) 1856年12月13日
オーストリア帝国・コスタイニツァ
死没 (1920-05-23) 1920年5月23日(63歳没)
オーストリアクラーゲンフルト
所属組織オーストリア=ハンガリー帝国軍(英語版)
軍歴1878年 - 1918年
最終階級陸軍元帥
指揮第三軍・第四軍
勲章マリア・テレジア軍事勲章
テンプレートを表示

スヴェトザル・ボロイェヴィッチ・オド・ボイネ(クロアチア語: Svetozar Borojevi? od Bojne / Svetozar Borojevi? od Bojne)、あるいはシュフェトツァール・ボロイェフィク・フォン・ボイナ(ドイツ語: Svetozar Boroevi? von Bojna)1856年12月13日1920年5月23日)は、オーストリア=ハンガリー帝国陸軍軍人
経歴

ナティ[1][2][3][4][5] に属する正教徒の家庭に、クロアチアコスタイニツァで生まれた。

士官学校を出て陸軍入隊後、1878年ベルリン条約に基づくボスニア・ヘルツェゴビナ進駐に参加(1908年併合宣言まで名目上の宗主権はオスマン帝国にあった)。その後士官学校で再教育を受けてから、今度は数年間教官を務めたのち、再び指揮官に復帰している。

1914年第一次世界大戦が開戦すると東部戦線に配属され、1914年9月の初めは、第三軍の指揮官に転進し、10月の初めに、彼はプレツミスル要塞をロシア軍の包囲から一時的に解放し、プレツミスル(現プシェムィシル)の小康状態をもたらす。しかし東部戦線ではオーストリア軍の敗走が続き、第三軍もカルパティア山脈まで退く。

包囲されたプレツミスル要塞を救援すべく、年明けの1月の真冬に攻勢命令が参謀本部から出るが、真冬のしかも山中の進軍はほとんど叶わず、攻撃は翌月に中止され、翌3月にはプレツミスル要塞のオーストリア軍は降伏し要塞は開城する。しかし程なくドイツ軍の増援が到着し、アウグスト・フォン・マッケンゼン率いる独第十一軍とヨーゼフ・フェルディナント大公の墺第四軍による、戦線の突出部のゴルリッツ突破をはたすが、この間、イタリア王国がオーストリアに宣戦布告し、ボロイェヴィッチはプレツミスル奪還を見る前にイタリア戦線に転属となり、後事をマッケンゼンに託す。独墺軍は翌月にプルゼミスル、続いてレンベルク(現リヴィウ)奪還を果たす。

イタリア戦線では第四軍司令官となり、イタリア軍をイゾンツォ川を挟んで対峙する。この河を挟んだイタリア軍の攻勢を寡兵であったにもかかわらず十一度にもわたって彼は防ぎ切っている。そのため、「イゾンツォの騎士」の異名をとった。1916年5月1日には上級大将に昇進を果たし、1917年8月23日には、イタリア戦線の指揮官に、1918年2月1日には陸軍元帥に昇進、マリア・テレジア軍事勲章他多数の勲章を受章した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:14 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef