スワンナ・プーマ
[Wikipedia|▼Menu]

ラオス王国政治家スワンナ・プーマ???????????
Souvanna Phouma
スワンナ・プーマ(1969年撮影)
生年月日1901年10月7日
出生地 フランス領インドシナ連邦
ルアンパバーン王国 ルアンパバーン
没年月日 (1984-01-10) 1984年1月10日(82歳没)
死没地 ラオス ヴィエンチャン
出身校グルノーブル・アルプ大学(英語版)
パリ大学
所属政党国民進歩党(英語版)
ラオス中立党(英語版)
称号
配偶者アリン・クレア・アラード(英語版)
(1933年 - 1969年)
子女マンカラ・スワンナ・プーマ(英語版)
ムーネ・スティーグリッツ
親族ペッサラート(兄)
スパーヌウォン(異母弟)
ラオス王国
第4・6・10・13代 首相
在任期間1951年11月21日 - 1954年10月20日1956年3月21日 - 1958年8月17日1960年8月30日 - 1960年12月13日1962年6月23日 - 1975年12月2日
国王シーサワーンウォン
サワーンワッタナー
テンプレートを表示

スワンナ・プーマ(ラーオ語: ??????????? / Souvanna Phouma, 1901年10月7日 - 1984年1月10日)は、ラオス王族政治家。中立派の指導者であり、ラオス王国において数度にわたり首相を務めた。殿下(Tiao)の称号を持つ。
経歴

スワンナ・プーマは、ルアンパバーン王国の最後の副王でシーサワーンウォン国王の甥にあたるブンコン(英語版)の第3王子として生まれた。彼はハノイパリ及びグルノーブルでフランス流の教育を受け、建築学工学の学位を得た。1931年に帰国し、仏領インドシナ公共事業局 (the Public Works Service of French Indochina) に務めた。

第二次世界大戦末、フランスの占領軍とヴィエンチャン臨時政府(1945?46年)に対抗し、ラーオ・イサラ(自由ラオス)運動が設立され、プーマは兄ペッサラート・ラッタナウォンサ殿下(1891年?1959年)や異母弟スパーヌウォン殿下(1909年?1995年)等と共に参加した。

フランスがラオスを再占領した時、プーマはバンコクに亡命したが、フランスがラオスの自治権を認めた1949年、帰国した。
首相就任1956年北京を訪問したスワンナ・プーマ(中央、その左は周恩来

1951年、国民進歩党が国民議会の39議席中15議席を獲得し、プーマは同政権下で首相となり、1954年まで務めた。

1955年12月の選挙において、進歩党が20議席、サナニコーン派の独立党が9議席を獲得したが組閣できず、1956年3月21日、民族和解と中立主義を掲げるプーマが再び首相に就任した。同年7月31日より、プーマ首相は、共産勢力パテート・ラーオ代表を務める異母弟スパーヌウォンとの間で、パテート・ラーオの王国政府への統合について、交渉を始めた。交渉の進展により、同年末までに、いくつかの合意が成立した。しかし、アメリカ、イギリス、フランスの西側の圧力により、1957年5月、プーマは辞職に追い込まれた。
第一次連合政府

1957年7月7日、首相に就任。同年11月18日、左派との「国民連合政府」が樹立され、プーマが引き続き首相職を務め、スパーヌウォンが計画・建設相、もう一人のパテート・ラーオ指導者プーミ・ウォンウィチットが宗教相として、連合政府に参画した。

21議席の補充選挙が1958年5月4日に実施され、パテート・ラーオの政党組織ネオ・ラーオ・ハクサート(ラオス愛国戦線)が9議席、その同盟政党の平和党が4議席、併せて13議席を獲得した。この左派の躍進に対抗し、国民連合党や進歩党などは合併してラオス人民連合 (Lao Hom Lao) を結成し、プーマが党議長に就任した[1]

1958年6月、プーマは右派による辞任と再び抵抗した。国王は翌日、スワンナ・プーマの政府を解散させ、革命委員会に暫定的に権力を与える国王布告第282号に署名し、正式なものとして投票を受け入れた。国王布告第283号は、プイ・サナニコーンの傀儡を演じていたブン・ウム殿下により組織された臨時政府を承認した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:18 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef