スワンナプーム
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タイバンコクの国際空港については「スワンナプーム国際空港」をご覧ください。
1448年頃のアンドレアス・ヴァルスペルガーの地図上の、インド洋のジャワの近くの黄金半島(Aurea Chersonesus)と近くの金島・銀島

スヴァルナブーミあるいはスワンナプーム(サンスクリット: ?????????? Suvar?abh?mi, パーリ語: Suva??abh?mi, タイ語: ?????????? )[注釈 1]は、『マハーワンサ[1]、『ジャータカ』の一部の話[2][3]、『ミリンダパンハ[4]と『ラーマーヤナ[5]などその多くの古代インドの文献と仏教の文献に現れる地名である[6]

アショーカ王碑文がこの名前に言及しているという一般的な誤解がある。実際には、碑文は王の名前だけに言及していて、本文でスヴァルナブーミに言及していない[要出典]。さらに、本文で言及されているすべての王は、シンドの西に位置する地域の都市を統治していた。誤解は、『マハーワンサ』でアショーカ王がスヴァルナブーミに彼の仏教宣教師を送ったという話との混同に起因するかもしれない[要出典]。

その正確な位置は不明で議論は分かれているが、スヴァルナブーミはインド洋を通る交易路沿いの重要な港であり、バスラ、ウブラ、シーラーフの裕福な港から、マスカットマラバールセイロンニコバルケダを経由し、マラッカ海峡を通って伝説のスヴァルナブーミへと出航した[7]
歴史上の記述

スヴァルナブーミは「黄金の土地」を意味し、古代の文献ではそれを東南アジア各地のさまざまな場所の1つに関連付けた。

スヴァルナブーミはまた、クラウディオス・プトレマイオス地理学』でガンジス川の向こうのインドにある黄金島や、ギリシア・ローマの地理学者や航海者の記録にある黄金半島 (Golden Chersonese) の源であるかもしれない[8]。『エリュトゥラー海案内記』は、「クリューセー」(黄金の土地)に言及して、「海に浮かぶ島であり、人が住む世界の東の果てで、昇る太陽の下にクリューセーがある。この国の向こうに(中略)ティナと呼ばれる非常に素晴らしい内陸都市がある。」と記述している[9]。ディオニュシオス・ペリエゲテス(英語版)は、「ちょうど太陽が昇るところにあるクリューセー(金)島」[10]に言及している。

カエサレアのプリスキアヌスはディオニュシオス・ペリエゲテスのラテン語訳において、「あなたの船が(中略)昇る太陽がその暖かい光を取り戻す場所に連れて行くならば、肥沃な土地をもつ金の島を見るだろう。」と記している[11]。アウィエニウス(英語版)は、「スキタイの海が夜明けを生み出す」場所にある「Insula Aurea」(金島)に言及している[12]フラウィウス・ヨセフスは、「Aurea Chersonesus」について、『旧約聖書』のオフィル(英語版)と同じ場所であり、そこからティルスイスラエルの船がエルサレム神殿のために金を持ち帰ったと言っている[13]。都市「ティナ」はプトレマイオスの『地理学』によって「大湾」(タイランド湾)の東岸にある国の首都であると説明されていた。
場所

スヴァルナブーミの場所は、学問的および民族主義的な議題の両方で多くの議論の対象となっている。それは今もアジアの歴史の中で最も神秘的で論争のある地名の一つである[14]。学者たちは古代スヴァルナブーミの場所として2つの地域を特定した。東南アジアの島嶼部および南インドである[15]。Saw Mra Aungは、スヴァルナブーミの位置に関するさまざまな文献資料の調査において、この問題について決定的な結論を出すことは不可能であり、徹底的な科学的調査によってのみ、いくつかのバージョンのスヴァルナブーミのうちどれがオリジナルであるかを明らかにできると結論づけた[16]

何人かはこの国が扶南国を指していると推測した。扶南の主要な港は「シナイのカッティガラ港」だった[17]
東南アジア島嶼説アジア地図の11枚目に見える黄金半島(Aurea Chersonesus)の拡大。ニコラウス・ゲルマヌスによる1467年のプトレマイオス『地理学』の地図の複製。黄金半島すなわちマレー半島を示す。水平線は赤道を表しているが、北回帰線からプトレマイオスの度数を使用して計算されているため、あまりにも北にずれて配置されている。

マレー半島を参照している最も強力で最も早い手がかりはクラウディウス・プトレマイオスの『地理学』で、そこでは黄金半島と呼ばれ、東南アジア内部に位置していることが明らかである[18]

スヴァルナブーミ(「金の土地」)という語は、ビルマ低地とマレー半島を含む東南アジア半島を指すと一般に考えられている。ただし、別の金と関係する地名スヴァルナドヴィーパ(Suvar?adv?pa、「dv?pa」は半島または島のいずれかを指す場合があるため、金島または金半島を意味する)[19]があり、インドネシア列島、特にスマトラに対応するかもしれない[20]。どちらの語も、おそらくスマトラやジャワを中心とした、現在のインドネシアマレーシアの沿岸または島の強力な王国を指すかもしれない。これは、バリマ山脈、スマトラ島、ボルネオ島の内陸のミナンカバウ高地で伝統的に知られている金産地に対応している。『サマラーイッチャ・カハー』という8世紀のインドの文献は、スヴァルナドヴィーパへの航海と、黄金に豊む砂からレンガを作り、「dharana」という名前を刻んでから焼くことについて説明している[21]。これらは東南アジア島嶼部の西部、特にスマトラ、マレー半島、ボルネオ、ジャワの方向を示している。

マラッカの狭い海峡の戦略的な位置から利益を得て、当時のインドを巡礼する中国人による曖昧な記述にもとづいて、島嶼理論は実際に金を産出する以外に海洋貿易のハブとして王国が力と富を持ち、したがって「金の土地」と呼ばれた可能性も主張した。中国とインドの間の海上貿易の中心はシュリーヴィジャヤ王国だった。しかしながら、漢字による表記の制約により、漢籍の歴史的情報源の解釈は、漢字とその音と古代東南アジア文明の既知の地名との対応にもとづく。ヘンドリック・ケルン(英語版)は、スマトラ島が古代ヒンドゥー教の文献で言及されているスヴァルナドヴィーパであり、『エリュトゥラー海案内記』およびアウィエニウスの言及するクリューセー島だと結論付けた[22]

初期の旅行記録の解釈は必ずしも容易ではない。860年と873年の中国へのジャワ大使は、ジャワを金に富んでいると述べているが、実際には金を埋蔵していない。ジャワ人は、おそらく隣接するスマトラ、マレー半島、またはボルネオから金を輸入しなければならなかっただろう。それらの土地で金は19世紀になっても採掘されていたし、古代の採掘現場のある土地でもある[23]。ジャワに自身は金を埋蔵していなかったが、この文書では金細工師の存在について頻繁に言及しており、ウォノボヨの財宝 (Wonoboyo hoard) などの考古学的証拠から、この文化が大量の金属の輸入に依存して洗練された金の加工技術を発達させたことは明らかである[24]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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