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スロボダン・ミロシェヴィッチ
Слободан Милошеви?
1988年
ユーゴスラビア
第3代 大統領
任期1997年7月23日 – 2000年10月7日
セルビア共和国
初代 大統領
任期1990年9月28日 – 1997年7月23日
セルビア社会主義共和国
第7代 幹部会議長(大統領)
任期1989年5月8日 – 1990年9月28日
出生 (1941-08-20) 1941年8月20日
ユーゴスラビア王国、ポジャレヴァツ
死去 (2006-03-11) 2006年3月11日(64歳没)
オランダ、ハーグ
政党ユーゴスラビア共産主義者同盟
(セルビア共産主義者同盟(英語版))→セルビア社会党
配偶者ミリヤナ・マルコヴィッチ
署名
スロボダン・ミロシェヴィッチ(中央)。デイトン合意の調印の場にて
スロボダン・ミロシェヴィッチ(セルビア語: Слободан Милошеви? / Slobodan Milo?evi?、1941年8月20日 - 2006年3月11日[1])は、セルビアの政治家。セルビア社会主義共和国幹部会議長(大統領に相当・第7代)、セルビア共和国大統領(初代)、ユーゴスラビア連邦共和国大統領(第3代)、セルビア共産主義者同盟(英語版)中央委員会幹部会議長、セルビア社会党党首を歴任した。 欧州ではベラルーシのルカシェンコ大統領と並ぶ独裁者と見られ、いわゆる戦争犯罪に手を染めた人物として有名であった。1992年のユーゴスラビア社会主義連邦共和国崩壊後は一貫してNATO諸国と対立し、一連のユーゴスラビア紛争における戦争犯罪人として身柄を拘束された。第二次世界大戦の戦後処理を行った極東国際軍事裁判以来初の国際裁判での戦犯として国際連合が設置した旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷で起訴されていたが、2006年3月11日に、「人道に対する罪」(欧州ではナチス・ドイツ関係者を裁いたニュルンベルク裁判以来の適用となるジェノサイド罪で被告となっていた)に対する国際検事団による協同審議中に持病が悪化し、収監先のハーグにて獄死した。冷戦時代を締めくくる戦犯として知られる。満64歳没。 ベオグラードの東約70キロの町ポジャレヴァツで生まれる[1]。父親は家族を棄て、また母親、伯父も自殺している。少年時代は学校の共産主義科目を得意としており、「小レーニン」と呼ばれた。1964年にベオグラード大学法学部を卒業後、ガス会社のテクノガスに入社。1973年には社長となった。その後ベオグラード銀行に移り1978年に頭取となる[1]。 政界に転身し、1978年 - 1982年、ベオグラードの共産主義者同盟幹部となり、1987年4月にコソボを訪問した際には、アルバニア人から迫害されたセルビア人に対してコソヴォ・ポリェで演説を行い、セルビア人を守る旨の発言をした[1]。それ以来、セルビア人の「守護神」としてセルビア民族主義者中で人気を獲得し始めた。1986年にセルビア共産主義者同盟
概要
生涯
1987年にイヴァン・スタンボリッチ(英語版)が辞任したのを受けて、セルビア共和国幹部会議長に就任した。スタンボリッチは2000年に何者かに誘拐され、2003年に死体で発見された。セルビア国家保安庁・特殊作戦部隊による犯行と見られている。
1990年には新設のセルビア共和国大統領に就任。1992年にミラン・パニッチ首相を破り再選された。1997年にはセルビア共和国大統領の任期切れを前にユーゴスラビア連邦共和国(新ユーゴ)第3代大統領に就任した。大統領になってからは、治安機関から出される報告書に毎日目を通していたといわれ、情報・治安機関を使って政敵や野党勢力の動向監視や民主化運動を容赦なく弾圧していた。
1991年にはスロベニア・クロアチア・マケドニア共和国独立に、1992年にはボスニア・ヘルツェゴビナ独立運動に軍事介入した。また1998年以降激化したコソボ紛争を治安部隊により弾圧したが、1999年のNATOによるユーゴ空爆後、コソボの国連管理を容認することとなる。
2000年秋、再選を目指し国民による直接投票となったユーゴスラビア連邦大統領選挙の際、選挙不正に怒った国民の抗議行動、いわゆる「ブルドーザー革命」により退陣し、連邦大統領の座をセルビア民主野党連合のヴォイスラヴ・コシュトニツァに譲った。コソボ紛争でのアルバニア人住民に対するジェノサイドの責任者として人道に対する罪で起訴され、経済援助を条件にするNATOの圧力の下、2001年4月に職権濫用と不正蓄財の容疑で逮捕・収監された。