スロバキア語の歴史
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スロバキア語の歴史は、スロバキア語の歴史を一覧形式で示したものである。スロバキアの歴史も参照のこと。
初期の歴史
500年

スロバキアの地域にスラヴ人が来る。
6世紀 - 7世紀

スラブ系言語(スラヴ祖語)の中に音韻の差異が生じ始めた。スロヴァキアの領域においても同様である。この変化の結果については、次の9世紀の節参照。
9世紀

ニトラ公国(833年まで)がスロバキアおよびモラヴィア王国に成立。スラヴ祖語派のort-や-olt-がrat-やlat-(これらは現在の標準スロバキア語にある)に変化した方言が中央スロバキアに存在した。例えば、モラヴィア王ラスチスラフ(チェコ語でロスティスラフ)などである。さらに、スラヴ祖語のdi-、-ti-はdz-、-c-に変化している(この変化は9世紀以前に起こった)。

863年以前:ラテン語がおそらくこの地域で行政および典礼のための言語として用いられていた。

863年:コンスタンティノス(キリル)とメトディウス(en)がモラヴィア王国を訪れた。885年までモラヴィアではテッサロニケ地方由来のマケドニア・スラヴ語(古代教会スラヴ語ともいわれる)が行政、文学および典礼のための言語となり、グラゴル文字が用いられた。ラテン語も同時に用いられ続けた。初期古代教会スラヴ語の文の中には、モラヴィア王国およびパンノニアのスラヴ系住民(当時スラヴ語の文でSlovieneと呼ばれていた)が用いた言語の要素が含まれているものがある。また、グラゴル文字はコンスタンティノスが特にモラヴィアにおける宣教のために作り出したものであったが、dzに対応するgの文字が含まれ、当時はモラヴィアでのみ用いられた(現在もスロバキア語で用いられており、後にポーランドおよび一時的にではあるがボヘミアでも用いられた)。一方、それはマケドニア方言では用いられていなかった。

885年:モラヴィアにおけるスラヴ語の使用(古代教会スラヴ語)が教皇により禁止された。ラテン語が再び行政および典礼のための言語となった。キリルとメトディウスの弟子たちはブルガリア、クロアチア、そして後にボヘミア、ロシアなどの外国に逃れた。

10世紀初め

マジャル人907年大モラヴィア王国を征服して、現代のハンガリーに住みつき、南スラブ人から西スラブ人を切り離して、一時的にスロバキアの南部を征服する。(残っているスロバキアの大部分は11世紀の終わりまでの間にハンガリーの一部になる。)その後に、スロバキア語が大モラヴィア(現在のハンガリー)、スロベニア、およびスラボニアのスラヴ系住民の言語からいくつかの方言として起こる。 既に10世紀に、スロバキアの方言は現代と同じ東スロバキア方言・中央スロバキア方言・西スロバキア方言の3つのグループに分かれていた。他のスラブ諸語と同じく、スロバキア語の嚆矢は、6世紀、7世紀にさかのぼることができるが、スラブ語学者の一般的なコンセンサスでは各スラヴ系言語が異なる言葉と呼べるようになるのは10世紀になってからである。
10世紀 - 12世紀初頭

スロバキアを含むハンガリーで行政、宗教行事、文学に用いられる言語はラテン語であった。平民はスロバキアの方言を話していた。
13世紀 - 14世紀

スロバキア人市民や自作農らが行政言語としてスロバキア語を(ラテン語とともに)用い始める。スロバキア語は数世紀にわたる発達の後、統合されていった。
14世紀

文語チェコ語がスロバキアに浸透し始める。これはチェコ人の聖職者が教会学校で教える際に用いたためである。
15世紀 - 16世紀

スロバキア語は行政上の目的のために使用され続ける。文語チェコ語も一部のスロバキア人により、一部の目的(通信文書、ある種の契約、庶民向けの宗教書等)のために(ラテン語とともに)用いられたが、それにはほとんどの場合多くのスロバキア語の要素を含んでおり、高度な教育を受けていない人々によって書かれた文は常にスロバキア語で書かれていた。チェコ語が用いられた理由として、スロバキア人国家が存在しなかったために標準スロバキア語がなかったこと(それに対しチェコ語はおおよそ標準語となっていた)、スロバキア人にとってはラテン語より学ぶのが容易だったという事実、多くのスロバキア人がプラハ大学で学んでいたこと、スロバキアにおけるチェコのフス派やヤーン・イスクラ(Jan Jiskra)の運動の影響、そしてハンガリー王マーチャーシュ1世によるモラヴィアの一時的な征服、が挙げられる。16世紀に、洗練された西スロバキア、中央スロバキアおよび東スロバキア語が用いられ始めた(のち18世紀によく用いられるようになった)。
17世紀 - 18世紀

ルター派プロテスタントは宗教分野においてチェコ語を用いており(18世紀後半から、20世紀初頭まで典礼言語として用いられた)、一方、カトリックは、1635年創設のイエズス会の大学があったトルナヴァ出身の教養のある人々が用いた言語をもとにした西スロバキア語(洗練西スロバキア語、イエズス会スロバキア語)が用いられていた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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