スレム
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スレム地域の地図地域の紋章

スレム(セルビア語:Срем / Srem)、スリイェム(クロアチア語:Srijem)、セレームあるいはセレームシェーグ(ハンガリー語:Szerem, Szeremseg)、シルミア(ラテン語:Syrmia)、シルミエン(ドイツ語:Syrmien)は、ヨーロッパ中部のパンノニア平原の一角を占める肥沃な平地であり、ドナウ川サヴァ川に挟まれた地域を指す。1991年以降、この地域の東部はセルビア、西部はクロアチアの領土となっている。

セルビア領の部分のほとんどがヴォイヴォディナ自治州スレム郡南バチュカ郡の領域であり、一部がベオグラード市ゼムンスルチンおよびノヴィ・ベオグラード(Novi Beograd)の各自治体の領域となっている。クロアチア領の部分はヴコヴァル=スリイェム郡に含まれ、同国領土の東端を成している。
呼称

セルビア語標準形ではスレム(Срем / Srem)、クロアチア語標準形ではスリイェム(Srijem)と称される[r 1]

他の言語でこの地方を表す呼称には、次のようなものがある。

ラテン語: シルミア(Syrmia)、シルミウム(Sirmium)

ドイツ語: シルミエン(Syrmien)

ハンガリー語: セレームシェーグ(Szeremseg、セレーム(Szerem)

スロバキア語: スリエム(Sriem)

パンノニア・ルシン語: スルィム(Срим)

トルコ語: シレム(Sirem)

ウクライナ語: スレム(Срем、スリム(Ср?м)、スルィム(Срим)

フランス語: Syrmie

歴史スレム地方における古代の印欧語族の人々の分布

歴史上、スレム地方はローマ帝国フン族アヴァール、ゲピド属、東ローマ帝国フランク王国ブルガリア帝国、パンノニア・クロアチア、ハンガリー王国オスマン帝国ハプスブルク君主国オーストリア帝国オーストリア=ハンガリー帝国、セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国のちにユーゴスラビア王国ユーゴスラビア社会主義連邦共和国と、多くの支配者を経験してきている。ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の統治下では、ジラス委員会(Dilas Commission)によって1945年に東はセルビア人民共和国、西はクロアチア人民共和国の領土とされた。1992年の1月にクロアチアの独立が国際的に承認され、同年4月にはセルビア共和国モンテネグロ共和国によるユーゴスラビア連邦共和国が成立すると、クロアチアとセルビアの境界は国際的な国境となった。スレム地方の東側はセルビア領としてユーゴスラビア連邦共和国の領土の一部に組み込まれており、連邦は2003年にセルビア・モンテネグロへと再編された。2006年には連邦は解消され、それ以降は独立国となったセルビアの領土となっている。
古代

シルミアの呼称は古代都市シルミウムに由来しており、この町は今日のスレムスカ・ミトロヴィツァに相当する。シルミウムは紀元前3世紀に成立した当時はイリュリア人の町であり、紀元前1世紀にローマ帝国によって征服された。西暦紀元後6年、バトン(Baton)、ピネス(Pines)に率いられたイリュリア人の部族が、ローマの支配に対して反乱を起こした。スレム地方のローマ都市

シルミウムはローマ帝国にとって重要な都市であった。この町はローマ帝国領パンノニアの経済的中心地であり、帝国の4つの首都の1つであった。10人のローマ皇帝がこの町やその周辺で生まれた。この10人とはヘレンニウス・エトルスクス(在位:227年-251年)、ホスティリアヌス(230年?-251年)、デキウス(249年-251年)、クラウディウス・ゴティクス(268年-270年)、クィンティッルス(270年)、ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌス(270年-275年)、プロブス(276年-282年)、マクシミアヌス(285年-310年)、コンスタンティウス2世(337年-361年)、グラティアヌス(367年-383年)である。これらの皇帝はローマ化されたイリュリア人の出自である。ローマ帝国のパンノニア・セクンダ(Pannonia Secunda)州は、こんにちのスレム地方に加えてスラヴォニアボスニアの一部を含み、その州都はシルミウムに置かれた。
中世

6世紀には、スレムは東ローマ帝国パンノニア州の一部となった。7世紀、スレムを支配したのはブルガール人のクベル(Kuber)であり、アヴァール人の臣下としてこの地を統治した。9世紀初頭、リュデヴィト・ポサヴスキ(Ljudevit Posavski)の反乱に地元のスラヴ人が乗じ、短い間彼の統治下となった。フランク人が反乱を鎮圧すると、彼らはスラヴ人に対する支配権を確立した。その後827年にブルガリア人によってフランク人は駆逐された。ブルガリア人は、リュデヴィト・ポサヴスキの反乱以前はこの地方のスラヴ人はブルガール人の従属民であったため、ブルガリアはこの地方の正当な所有者であるとして、フランク人との間で領土問題となっていた。後に両者の間で和平協定が結ばれ、スレムはブルガリアの所領となった。フルシュカ・ゴーラ山(Fru?ka Gora)の「フルシュカ」とは、「フランク人の」を意味するセルビア語クロアチア語の「fru?ki」に由来しており、「フルシュカ・ゴーラ」は「フランク人の山」を意味している。11世紀、ブルガリア帝国の公爵セルモンの所領

11世紀、スレムの支配者は第二次ブルガリア帝国の皇帝・サムイルの臣下である公爵セルモン(Sermon)であった。セルモンは、現在のスレムスカ・ミトロヴィツァにて、独自の金貨を発行した。ブルガリア帝国がビザンティン帝国に敗北すると、セルモンはビザンティンへの服従を拒否したため、ビザンティンの将軍コンスタンディノス・ディオゲニス(Constantine Diogenes)によって囚われ、殺害された。

セルモンの死後、スレム地方はビザンティン帝国の領域に組み込まれたが、帝国による実効支配がどの程度まで及んでいたのかははっきりしていない。シルミウムテマが短期間の間設置されており、同テマには現在のスレムとマチュヴァ(Ma?va)を含んでいた。12世紀にこの地方はハンガリー王国によって征服された。1229年3月3日付けの大勅書のなかで、ローマ教皇・グレゴリウス9世は、シルミアがハンガリーの所領となったことを確認したことが記されている[1]

1231年にシルミアを支配していたのはハンガリー貴族のジレ家(Giletus)であったことが記されている。13世紀にシルミアの西部がヴコヴァルとして分離された。1282年、セルビア王国の王ステファン・ドラグティン(Stefan Dragutin)は、王位を弟のステファン・ウロシュ2世ミルティンに譲り、以降から1316年までの間、スレム地方の王として君臨した。この国はスレム王国と通称され、セルビアの北部、マチュヴァ(Ma?va)、ウソラ(Usora)、ソリ(トゥズラ)、スレム地方東部などを領域としていた[2][3][信頼性要検証]。


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