スレブレニツァ
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スレブレニツァ
Сребреница
Srebrenica
Srebrenica

スレブレニツァ市街


基礎自治体

位置

ボスニア・ヘルツェゴビナでのスレブレニツァの位置
行政
ボスニア・ヘルツェゴビナ
 構成体 スルプスカ共和国
 地方ヴラセニツァ地方
 基礎自治体スレブレニツァ
市長Abdurahman Malki?
民主行動党
人口
人口(1991年現在)
  基礎自治体域36,666人
その他
等時帯CET (UTC+1)
夏時間CEST (UTC+2)

スレブレニツァ(セルビア語:Сребреница、ボスニア語:Srebrenica、クロアチア語:Srebrenica、IPA: /sr?br?nitsa/)あるいはスレブレニッツァはボスニア・ヘルツェゴビナの町、およびそれを中心とする基礎自治体。ボスニア・ヘルツェゴビナを構成する構成体のうち、スルプスカ共和国に属する。スレブレニツァは塩の採掘と温泉を産業の中心とする小さな町である。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争のなかで、ボシュニャク人の住民が大量殺害されるスレブレニツァの虐殺が起こった。2007年3月、スレブレニツァ市議会はスルプスカ共和国からの分離を求める決議案を採択した。セルビア系の議員は採決を棄権した[1]。スレブレニツァ市にはスレブレニツァの町を含む集落ごとの19の地区に分かれている。
経済

1992年以前は、町には精錬所があり、鉛、亜鉛、金などの採掘が行われていた。町の名前「スレブレニツァ」は「銀鉱山」を意味しており、町のラテン語の古名アルゲンタリア(Argentaria)も同様である。
歴史

最古の典拠によれば、スレブレニツァは1376年には西バルカンでは、とくにこの地域の銀鉱を基盤とした重要な交易的中心であった。現存する原鉱はすでにローマ帝国時代から知られ、ドマヴィア(Domavia)の集落が鉱山の近くに存在した。スレブレニツァが最初に言及された時、ラグーサ共和国の多くの交易地が設立され、海路での銀の輸出や国内での銀取引のため管理されており、それらはラグーサ港(ドゥブロヴニク港)を経由していた[2]

14世紀の間、多くのドイツ人鉱員たちが、スレブレニツァに移動してきている[3]1420年代中頃、ボスニア王国の国王トヴルトゥコ2世の軍が町の支配を得るために戦うが、オスマン帝国皇帝によって1440年に征服される[4]フランシスコ会修道院モスクに変わるが、多くのラグーサやサクソン人カトリック教徒のイスラム教への改宗は他の地域の町より遅かった[5]。オスマン帝国の支配によって、カトリック人口が減るとスレブレニツァのラグーサ共和国に対する経済的重要度は減少していった。
スレブレニツァの虐殺詳細は「スレブレニツァの虐殺」を参照

1992年から1995年にかけてのボスニア・ヘルツェゴビナ紛争において、ムラディッチ率いるセルビア人勢力が「ボシュニャク人の武装グループがセルビア人居住区のブラトゥナッツを攻撃し、多数のセルビア人犠牲者が出たため、セルビア人に対する虐殺への報復を行う」として多くの住人が虐殺された(しかし1999年の国連事務総長のレポートにおいて、この主張を裏付ける証拠はないとされている)。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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