スレブレニツァの虐殺
2007年に行われた465人のボシュニャク人の埋葬[1]
場所 ボスニア・ヘルツェゴビナ、スレブレニツァ
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯44度06分 東経19度18分 / 北緯44.100度 東経19.300度 / 44.100; 19.300
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争
サラエヴォ包囲
クロアチア・ボスニア戦争
フォチャの虐殺
ヴィシェグラードの虐殺
プリイェドルの虐殺
ラシュヴァ渓谷の民族浄化
アフミチの虐殺
'93ネレトヴァ作戦
バニャ・ルカ事変
第一次マルカレ虐殺
ベーレバンク作戦
アマンダ作戦
トゥズラの虐殺
ムルコニチ・グラード事変
スレブレニツァの虐殺
'95夏作戦
虎作戦
嵐作戦
第二次マルカレ虐殺
NATOによるボスニア・ヘルツェゴビナ空爆
ミストラル作戦
サナ作戦
13歳の少年の墓石(2007年7月11日)ボスニア・ヘルツェゴビナにおけるスレブレニツァの位置
スレブレニツァの虐殺[注釈 1](スレブレニツァのぎゃくさつ、セルビア語: Масакр у Сребреници、ボスニア語: Masakr u Srebrenici、英語: Srebrenica massacre)またはスレブレニツァ・ジェノサイド(Геноцид у Сребреници、Genocid u Srebrenici[2]、英語: Srebrenica genocide; 日本語名は英名による)は、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争中にボスニア・ヘルツェゴビナのスレブレニツァで1995年7月に発生した大量虐殺事件である。
当時国連軍の管理下にあり「安全地帯」(非武装地帯)とされていた当地において、セルビア人のラトコ・ムラディッチに率いられたスルプスカ共和国軍(Vojska Republike Srpske; VRS)によって推計8000人のボシュニャク人(イスラム教徒)が殺害された[3][4][5][6][7]。スルプスカ共和国軍に加えて、クライナ・セルビア人共和国を拠点とする準軍事組織「サソリ」(?korpioni)も虐殺に加担していた[8][9][10][11][12]。
ボスニア・ヘルツェゴビナの連邦行方不明者委員会による、スレブレニツァで殺害されるか行方不明となった人々の一覧には、8,373人の名前が掲載されている[13]。2008年12月までの段階で、およそ5800人の遺体がDNA調査によって身元特定され、3,215人がポトチャリのスレブレニツァ虐殺記念館にて埋葬された[14][15][16]。
なお、本項では、ボスニア・ヘルツェゴビナにおいて「ムスリム人」が「ボシュニャク人」と言い換えられる前の歴史的な記述についても、断り無く「ボシュニャク人」の呼称を使用する。 ボスニア・ヘルツェゴビナは1992年までユーゴスラビアの連邦構成国であり、宗教の異なるボシュニャク人、セルビア人、クロアチア人の3民族が人口比率の上で拮抗していた[注釈 2]。1990年にユーゴスラビアが民主化され、複数政党制が導入されると、その構成国であったボスニア・ヘルツェゴビナではそれまで禁じられていた民族主義勢力が選挙で勝利を収め[3][18][19]、ボシュニャク人のアリヤ・イゼトベゴヴィッチが大統領に選出された。当時のセルビアはユーゴスラビアの一部であった一方、クロアチアは既に独立を果たしており、ボスニア・ヘルツェゴビナでもボシュニャク人とクロアチア人は独立を望んでいた。1992年には独立の可否を問う住民投票の結果を受けてボスニア・ヘルツェゴビナは独立を宣言した。これに対して、数の上で最大となるボシュニャク人による支配を嫌い、クロアチア人とセルビア人の民族主義者はボスニア・ヘルツェゴビナの中央政府を去り、ボスニア・ヘルツェゴビナ国内にそれぞれ民族独自の共同体ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国およびスルプスカ共和国を設立し、両者とボスニア・ヘルツェゴビナ中央政府の3者によるボスニア・ヘルツェゴビナ紛争へと発展した。 ボスニア・ヘルツェゴビナにおいて、セルビア人が多数を占めていたのはボスニア・ヘルツェゴビナの国土の北部に位置するバニャ・ルカを中心とする北部ボスニア地方(ボサンスカ・クライナ)、および国土の最南端に位置するヘルツェゴビナ南東部であった。
概要
紛争に至るまで
東部ボスニア地方での紛争の背景