スレイヤー
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この項目では、スラッシュメタルバンドについて説明しています。GUILTY GEARシリーズの登場人物については「スレイヤー (GUILTY GEAR)」をご覧ください。

スレイヤー
Slayer
ラストイヤー - ドイツ・ニュルブルク公演(2019年6月)

バンド ロゴ
基本情報
出身地 アメリカ合衆国
カリフォルニア州ハンティントン・パーク
ジャンルスラッシュメタル[1]
エクストリームメタル
ヘヴィメタル[1]
クロスオーバー・スラッシュ
活動期間1981年 - 2019年
レーベルメタル・ブレイド・レコーズ
アメリカン・レコーディングズ
ニュークリア・ブラスト
公式サイトslayer.net (英語)

メンバートム・アラヤ (Vo/B)
ケリー・キング (G)
ポール・ボスタフ(英語版) (Ds)
ゲイリー・ホルト(英語版) (G)

旧メンバージェフ・ハンネマン (G)
デイヴ・ロンバード (Ds)
ジョン・デッティ(ドイツ語版) (Ds)

スレイヤー(SLAYER)は、アメリカ合衆国スラッシュメタルバンド

同時期にデビューした「メタリカ」「アンスラックス」「メガデス」と並び、スラッシュメタル"BIG4"と形容された一角として君臨し、デビュー以来ほとんど変化する事なくアグレッシヴな音楽性を貫き通した。そのスタイルはエクストリームメタルの原点ともなっている[2]

2007年2008年グラミー賞』受賞。

2019年に活動を終えた。目次

1 概要

2 来歴

3 メンバー

3.1 最終ラインナップ

3.2 旧メンバー


4 作品

4.1 オリジナル・アルバム


5 日本公演

6 脚注

7 外部リンク

概要

歌詞やアルバムのジャケットに用いられる、死、自殺、精神異常、死体、サタニズム、連続殺人犯、戦争などといったテーマがしばしば議論を呼び、アルバムの発売禁止及び延期、訴訟に発展し1980年代には音楽検閲推進団体『PMRC』の標的にもなった。また、後のデスメタルブラックメタルにも影響を与えた。1986年にリリースされたアルバム『Reign in Blood - レイン・イン・ブラッド -』などは英国ケラング!誌に"the heaviest album of all time by Kerrang!"と評された[3]

1983年のデビュー時から2枚のライヴ・アルバム、1つのボックスセット、4つの映像作品、2枚のEP、11枚のアルバムをリリースし、4枚のゴールドディスクを獲得している。グラミー賞には5回ノミネートされ(2017年現在)、その内2007年には『Eyes of the Insane』が、2008年には『Final Six』が最優秀メタル・パフォーマンスに選ばれた。全米でのアルバム総売上は350万枚を超え、『オズフェスト』や『UNHOLY ALLIANCE TOUR』などのロックフェスティバルではヘッドライナーを務めるほどの人気を有している。
来歴

1981年ケリー・キングデイヴ・ロンバードが意気投合し、Kerryが以前に「Quits」というバンド(その前は「Tradewings」という名前だった)で一緒にプレイしていたチリ出身のトム・アラヤと、ジェフ・ハンネマンを勧誘したことで結成された。最初は北カリフォルニアのクラブやパーティでアイアン・メイデンジューダス・プリーストなどのカヴァーを演奏していた。当初バンド名は「ドラゴンスレイヤー(Dragonslayer)」で、1981年公開の同名映画のタイトルからそのまま取ってつけられたという噂があったが、Kerryはこれを否定している。ロサンゼルスにある「Woodstock Club」にてヘヴィメタルバンド「Bitch」の前座としてライブで演奏(全8曲、その内6曲はカヴァー)した際、アイアン・メイデンの「Phantom of the Opera」をプレイする姿を見たアメリカの名門メタルレーベル「メタル・ブレイド・レコーズ」の創設者「ブライアン・スレイゲル(Brian Slagel)」に見出される。その後バックステージで両者は出会い、BrianはSlayerに作曲を要請しバンドはそれを承諾した。

1983年、そのメタル・ブレイド・レコーズによるコンピレーションアルバムの第三弾『メタル・マサカー3 - METAL MASSACRE 3 - 』(詳細は→メタル・ブレイド・レコーズ)に曲「Aggressive Perfector - アグレッシブ・パーフェクター」を提供、このレーベルと契約した。同年12月にデビュー作となる1stアルバム『ショウ・ノー・マーシー - SHOW NO MERCY - 』を発表。バンドには資金がなかったため、自分達で製作費用を出した(Tomは自分の稼ぎを充て、Kerryは父から金を借りた)。これによりメンバーはこの年の11月にスタジオ入りすることができた。

1984年には、アルバムのプロモーションを兼ねてライブツアーを行った。ツアーと言っても国内のクラブを回るもので、Tomの所有するカマロU-ホールから借りたトレーラーを引きながらの移動であった。このライブのおかげでバンドは知名度を上げ、アルバムはアメリカだけでも2万枚、国外でも2万枚以上の売り上げを記録する。同年10月、3曲入りEP『ホーンティング・ザ・チャペル - HAUNTING THE CHAPEL - 』を発表。アルバムの幕開けとなる「ケミカル・ウォーフェアー - Chemical Warfare - 」はバンドの定番の曲となった。アルバムリリース後、Slayerはバンド「UFO」の前座として、ライブ「Heavy Sounds Festival」においてヨーロッパデビューを果たす。アメリカに戻ってからは、ツアー「Haunting the West」を開始。ツアー後に、Kerryは「デイヴ・ムステイン(Dave Mustaine)」の新しいバンド「メガデス(MEGADETH)」に加入するために一時バンドを離れている。Jeffはこれに関して「新しいギタリストを探そうか考えていた」と語っている。その後バンドはヴェノムエクソダスと共に「Combat Tour」を開始、ライブアルバム『Live Undead』をリリース。

1985年、初のライブ映像となる『Combat Tour: The Ultimate Revenge』をリリース。ヴェノムらと共にニューヨークの「Studio 54」にて出演したライブが取り上げられた。またこの年にはアルバム『SHOW NO MERCY』の売り上げが4万枚を突破、バンドは2枚目のスタジオアルバムを製作することが出来ることになる。メタル・ブレイドは製作費用をバンドに与え、今回の収録にはプロデューサーの「Ron fair」を雇うことができた。同年9月、2ndアルバム『ヘル・アウェイツ - HELL AWAITS - 』を発表。『Hell Awaits』が成功したあと、バンドはリック・ルービンが率いるメジャー・レーベルデフ・ジャムからオファーを受け移籍する。

1986年、3rdアルバム『レイン・イン・ブラッド - REIGN IN BLOOD - 』を発表するが、「歌詞が過激過ぎる」という理由から(ナチスの虐殺者ヨーゼフ・メンゲレについて歌った『エンジェル・オブ・デス』が特に問題視された)、コロムビア・レコードがアメリカ国内の配給を拒否[4]


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